2008年2月24日日曜日

「人間嫌い」のルール

「人間嫌い」のルール (PHP新書 468)
「人間嫌い」のルール (PHP新書 468)

本書はサンフランシスコからの帰国便で読み終えたのだが、実は昨年秋に途中まで読んでいた。そのときは同僚と関西方面に出張中だったのだが、ホテルの部屋に置いてある本書のタイトルを見て、思いっきり同僚に引かれてしまったことを覚えている。読んでいる本を見つけられて、思わず言い訳しなきゃいけないなんて、官能小説に何か文学的な意味合いをつけることで配偶者や彼女に言い訳をしているみたいだ。

この本、読むタイミングによってはダークサイドへの手引書になってしまいそうな予感がする。筆者の話はどこまでが本当でどこまでがフィクションなのかわからないのだが、自分の現在の人間関係を書いた以下の部分で本書がどのような本か一発でわかるだろう。
 そして、自分の「波乱に満ちた」六十年を想い返してみた。十年前に「人生を半分降りる」宣言をした。その後、着々とあとの半分も降りる方向に傾斜していくように心がけ、親族・家族の絆を完全に切った。親の墓参りにも行かず、カトリックの妻とは離婚できないが、一緒に住んでいるといっても、年間(間違って)顔を合わせるのは一分未満。正月も、誕生日も、一緒に何かすることがなく、まったく交流のない「同居」状態である。息子は別のアパートに下宿している(らしい)が、どこにいるのかも知らない。
 五年前に姪(妹の娘)の結婚式の案内が届いたとき、自分の体内の深いところで「行きたくない!」という明晰な叫び声を聞き、それに従ったことをきっかけに、いかなる親戚付き合いをも絶っている。妻が親戚に起こった事件をときおり筆談形式で知らせてくれるが、最近では、母の一番末の妹が昨年十一月に死んでいたことを一ヶ月もあとに知った。ということは、以前は比較的親しくしていた叔母の死も葬式も、誰も私に知らせてくれなかったということだ。このことも、やはり「社会的不適合者」という太鼓判を押されたようで、とても嬉しかった。
筆者の家族との関係は5章の「家族を遠ざける」というところにも書かれているのだが、そこにはさらに何故筆者がこのような考えに至ったかについても書かれている。
 <略> 妻や息子が父親に期待する「心からの愛」はただの社会慣習にすぎない、という結論に達した。私の父はその社会慣習に従い、母から「愛のない人!」と罵倒されつづけ、それに抵抗せずそれに甘んじて死んだ。母は狂気寸前にまで陥りながら夫に「心からの愛」を要求しつづけ、かなえられずに死んだ。二人は壮絶な戦いにどろどろになって死んでいったが、なんでこんな虚しい戦いをする必要があるのか? もしかしたら、このすべては根本的に間違っているのではないか? こういう疑問が次第に私のからだの中に広がっていったのである。
 私は父母のように、残りの人生を果てしなく虚しく、果てしなくくたびれる戦いのために費やしたくないと思った。そうだ、すべては変えられるのだ! 頭上から重石が取り除かれたように、妻や子からさえきっぱり離れてもいいのだ、という新しい思いがむくむく育っていった。
なんだつまりは家族関係がうまくいかなったことの理論武装のためだったのか、という気が正直しないでもない。哲学者っていうのは、単なる家族の不仲までいろいろ理論が必要なのかとさえ思う。

ただ、ここまで極端ではないにしろ、社会常識をすべて疑ってみるというのは私も同意する。必ずしもそれに常識をよしとし、言い方は悪いがその既成の考えに縛られた仲良しクラブのメンバーになりたいとは思わない。実は多くの人が本当はそう思っているのではないのか。ただ、「仲間はずれ」になる、筆者が呼ぶ「共感ゲーム」から外れるのが怖くて実践できないだけではないのかと思う。

最後に筆者が、「人間嫌いとして人生を全うする(しかも充実して)ためのルール」を10にまとめている。
  1. なるべくひとりでいる訓練をする
  2. したくないことはなるべくしない
  3. したいことは徹底的にする
  4. 自分の信念にどこまでも忠実に生きる
  5. 自分の感受性を大切にする
  6. 心にもないことは語らない
  7. いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない
  8. 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない
  9. 自分を「正しい」と思ってはならない
  10. いつでも死ぬ準備をしている
これは新書の帯にも書かれている。これにピンと来た人くらいしか買わないだろうから、本書の内容に反発する人は少ないかもしれないが、嫌う人はとことん嫌う内容だろう。

ちなみに、筆者の中島義道氏については、Wikipediaでの解説いろいろなサイトで読める彼のコラム/コメントや彼への批評などを読むと良くわかる。私は中島氏の著作は今回始めて読んだのだが、ほかも読んでみたくなった。少し毒気が強いように思うので、時期を選ばなきゃいけないかもしれないが (^^;;;

あと、こんな感じの本が好きな人は、私が昨年読んだ「他人と深く関わらずに生きるには」もお勧め。

2008年2月23日土曜日

東京奇譚集

東京奇譚集 (新潮文庫 む 5-26)
東京奇譚集 (新潮文庫 む 5-26)

久しぶりに村上春樹氏の作品を読む。マウンテンビュー滞在中およびそこからの帰国時に読了。

5作品による短編集。

最初の作品「偶然の旅人」は村上氏自身の体験談のような形で書かれている。ゲイの友人(ピアノの調律師)が体験した不思議な偶然の話なのだが、村上氏らしいストイックな美意識に貫かれている。あるひとつの出来事がきっかけで、ふと呼び出されたように、普段行っていない行動をとることがある。その結果、起きることが、あらかじめ仕組まれていたような偶然。もしかしたらユングの言うシンクロニシティなのかもしれない。

次の「ハナレイ・ベイ」はサーファーである息子を亡くした女性の話。ちょっとオカルト的な結末であるが、作品の雰囲気を壊すほどではない。主人公の女性がなかなかおしゃれ。

3品目は「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。失踪した人間を探す話。正直、もうちょっと盛り上がりを期待していた。登場人物もほかの作品に比べると少し魅力に欠ける。

4品目は「日々移動する腎臓の形をした石」。この短編集の中ではこれが一番気に入った。登場人物が二人とも素敵だし、何より物語の最初に出てくる主人公の男が父親から言われたという「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」という言葉が印象的だ。物語もこの言葉を軸に進む。話の中で主人公も言うが、この言葉は本当に重い。こんなことを言われたら、周りにいる女性をすべてそんな目で見てしまうだろう(実際、主人公はそうなっている)。主人公の言葉で言うと「カウントダウン」。実際、ひとつカウントされてしまうことになるが、物語の終わり方は決して悲観的でない。

最後の作品は「品川猿」。名前を忘れやすくなってしまった女性の話。この話も悪くない。ただ、ちょっと途中からの流れが前半の流れとずれている感じがする。

2008年2月22日金曜日

爆発するソーシャルメディア セカンドライフからモバゲータウンまで グーグルを超えるウェブの新潮流

これもニューヨーク滞在中に読んだ一冊。

湯川氏はポッドキャストを拝聴しているし、いろいろな場ですれ違ったこともある(今度ちゃんとご挨拶します)のだが、実は著作を読むのはこれが始めてだったりする。もう1年近く前の書籍なので、ちょっと情報が古くなっているところがあるが、なかなかの力作。ちょっと表現方法が荒いかなと思わせるところもあるが、後で書くように、これは実は湯川氏の思いをぶつけた一冊だと思うので、その意味では、この荒さも肉声を伝えているという意味では悪くない。

いくつかの類書と同じように、ネットによるメディアの変化-特にソーシャルメディア(湯川氏はCGMと同じだとしている)-による新しい潮流を解説する。いくつかのサービス、たとえば今となっては新しいとはもはやいえなくなっているが、YouTubeやセカンドライフなどをその誕生から内容までを解説している。その解説自身も読み応えはあるものの、正直類書と大きな差はない。

ただ、湯川氏も自ら書いているように、実は本書はマーケット情報を解説しただけの本ではなく、湯川氏自身の「表現」というものに対する考えをぶつけるものとなっている。全体を通してそれは伝わってくるのだが、四章の「爆発するクリエィテイビティ」はまさにそのための章と言っても過言ではない。

特に、氏が言う、「表現欲求は日本人も米国人も同じ」というところには共感した。ネットのあり方のすべてを国民性のせいにしてしまうことは、正直私もあるが、それは安易な方法に思える。方法の違いや時期の違いはあるが、おそらく日本も表現するということに貪欲な人々が多くネット上に誕生してくることになるだろう。ちょうど、時期を前後して読んだ「大人が知らない携帯サイトの世界 ~PCとは全く違うもう1つのネット文化~」で解説されているケータイ世代がその突破口になるのかもしれないし、団塊の世代によりそのような潮流が生まれるのかもしれない。

また、表現するという欲求が生まれる背景をマズローの欲求段階説やマルクスの理論を持ち出し解説している(四章)。ここもなかなか面白い。

爆発するソーシャルメディア セカンドライフからモバゲータウンまで グーグルを超えるウェブの新潮流 [ソフトバンク新書]
湯川 鶴章

4797340185

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2008年2月21日木曜日

大人が知らない携帯サイトの世界 ~PCとは全く違うもう1つのネット文化~

これはニューヨーク滞在中に読んだ。出張中に、類書「勝手サイト 先駆者が明かすケータイビジネスの新機軸」も読んだのだが、本書はよりケータイ世代側に立った書籍。

ケータイのインターネットの歴史を知る筆者が異なる2つのネットが出来上がった背景を語り、ケータイを知る世代と知らない世代の壁について解説する。「勝手サイト 先駆者が明かすケータイビジネスの新機軸」のレビューでも書いたのだが、私はあきらかにPC世代であり、ケータイは使いこなせていない。ただ、知らない世界があることが許せないので、背伸びして(背を屈めて? また同じことを言っているが (^^;;;)、ケータイのネット世界を覗いてはいる。

ケータイの世界の代表コンテンツであるケータイ小説などについては、多くはその内容の薄さや品質の低さなどを酷評されることがあるようであるが、それらの声はPCからのネット世界からのものであり、ケータイのネット世界では逆にPCのネット文化が嫌われる。これはどちらが優でどちらが劣でという問題でなく、異なる価値観を持つ世界があると認識したほうが良いと筆者は説く。ケータイのネット世界を体験しようとしている私自身も心のどこかで、彼ら(ケータイしか使わない人たち)をいかに救済し、PCでの本来のネットのすばらしさを理解してもらえないかと考えていたところがある。だが、筆者は逆にケータイのネットだからこそできている多くのものがあるという。

たとえば、自己表現の場としてのネットというのは以前から言われていることであるが、クリエィティブなものは実はケータイ側のほうが多いようだ。プロフなどもいかに凝ったものにするかなどで高校生は競いあっている。匿名が暗黙のルールになっているPCのネット世界とは異なり、プロフなどで安易に個人情報を公開してしまっているのも、もちろんリテラシの低さというのも原因のひとつだったが、それ以上に自己アピールというものに積極的な世代であると本書は解説する。

さらに、このようなケータイ世代が社会に進出してきた場合、今までの暗黙の仮定は、彼らもケータイを卒業し、PCをネットデバイスの中心として使うようになると考えられてきた(少なくとも私はその考えを支持していた)が、必ずしもそうではなさそうだ。若い世代は極めて合理的にその2つのデバイスとさらにはデバイスの裏に広がるネット世界を使い分ける。PCやPCでのインターネットのリテラシがないわけではない。学校教育で下手すると、その上の世代よりもPCの操作には長けている。コミュニケーションの内容によって、デバイスとネットを使い分けているのだ。

ケータイのことを解説した書籍はいくつもあり、私も何冊か読んできたが、どちらかというと、あくまでも現象としてケータイを捕らえるものが多かったと思う。また、「ケータイ下流論」に代表されるようなケータイ世代を卑下するような内容のものもあったかと思う。本書はケータイ世代の優れている点を解説し、さらには単なるマーケット情報の紹介ではなく、文化論として、コミュニケーション論としてケータイの立ち位置を解説する。

今後ケータイ世代が社会に進出するようになったときに、筆者の読みがあたるかどうかがわかるだろうが、自分としてはむしろ積極的に本書で解説されているようなポジティブな態度でケータイ世代を見て、彼らの極めてオープンな自己表現の欲求を支えられるようなネット社会/IT社会の構築ができればなぁと思う。というか、むしろ仲間に入れてくれ (^^;;;

大人が知らない携帯サイトの世界 ~PCとは全く違うもう1つのネット文化~ [マイコミ新書] (マイコミ新書)
佐野 正弘

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日本の10大新宗教

日本の10大新宗教 (幻冬舎新書 し 5-1)
日本の10大新宗教 (幻冬舎新書 し 5-1)

出張に出ていると、移動時間や待ち時間などをつぶすために大量に書籍が必要になる。今回も中期(10日間くらい)の出張なので、15冊くらい持ってきた。本当はこういうときこそ、ちょっとボリュームのある本を読めると良いのだけれど、可搬性ということも考えると、勢い新書や文庫が多くなる。昔だったら、ボリュームのある本(ハードカバーとか)を解体して、薄いパーツ(分冊のような形)にし、持ち運んだものなんだけど、最近は貧乏くさくなって、それもしなくなった。ここ最近(でもないか?)の読書で、新書や文庫が続いているのはそのような理由だ。

今回紹介する「日本の10大新宗教」はニューヨークからサンフランシスコに移動中に読んだもの。

このブログでも何回か書いているが、私は宗教について聞いたり、読んだりするのが好きだ。でも、勧誘はお断り ;-)

私は、人が生きていく拠り所を探すのは当然であり、また、その拠り所になりうる宗教というのは何かその理由があるのではないかと常々思っている。また、信者をひきつけるその術についても強い興味がある。最近の社会的に糾弾されたいくつかの新宗教を見ても、通常の感覚では極めて胡散臭いにも関わらず、何故人々はそれに魅了され、生活を犠牲にしてまで献身的に活動を共にするのか。

このように考える自分というのは、「無宗教」という中立であり安全であり、いわば高見の見物的な形で宗教に接してきているのだが、本書によると日本人が無宗教であるというのは正しくない。
 日本人が自分たちのことを「無宗教」と考えるのも、生まれたときから日本の既成宗教の信者になってしまうからである。日本の場合には、既成宗教が、神道と仏教という二つの宗教が組み合わさった特殊な形態をとっているために、自分たちを神道の信者と決めることもできないし、仏教の信者と決めることもできない。そこから、特定の宗教に属していないという意識が生み出される。けれども、現実には神道と仏教にかかわり、その儀礼に参加しているわけで、その点では、ユダヤ教徒やキリスト教徒、さらにはイスラム教徒の場合と変わらない。
この指摘は正直新鮮だ。日本人以外に日本の宗教のことを話すときにも(ややこしくなるので、あまり話さないようにしているのだが)、日本には宗教が無いというように説明していたが、確かに儀礼には参加しているわけだし、あちらこちらにあれだけ神社やら寺院やらがあって、それで無宗教というのはおかしい気もする。すべてが歴史的な建造物なわけでもない。
 明治に入って近代化されるまで、日本には「宗教」という概念がなかった。宗教ということばはあったものの、それは宗派の教えという意味で、現在の宗教とは意味が違った。宗教という概念がなければ、神道と仏教を異なる二つの宗教としてとらえる見方そのものが存在し得ない。重要なことは、宗教という概念がない状態では、無宗教という考え方もなく、自分は無宗教だという自覚も生まれなかった点である。
なるほど。近代化において、新しい概念が日本に導入された例というのはほかにも多くあるが、宗教においても、初めて自分の宗教は何かと問いかけられ、その結果、それまでの宗派としての宗教とは別の概念によって定義しなおした場合に、「無宗教」という宗教が生まれたことになるのか。これについて、島田氏は次のように書く。
 明治に入って、宗教という概念が欧米から導入され、神道と仏教とが二つの宗教に分離されたにもかかわらず、日本人は、片方の宗教を選択できなかったため、自分たちを無宗教と考えるようになった。これは、近代に入って、日本人が無宗教になったといこととは違う。近世と近代で、つまりは明治維新を境にして、日本人の宗教生活が大きく変化したわけではないからである。
この結果、「無宗教」という国民の大半が帰属する宗教とそれ以外の欧米の定義による宗教の間に溝ができることになる。「溝」というのは言いすぎかもしれないが、特定の宗教に属する人がマイノリティとして見られるという社会構造の背景はここにある。

さて、本書では、カルトといわれる新宗教以外の新宗教を10ほど取り上げ、それぞれの成り立ちと現状を解説する。基本的に特定の宗教に肩入れすることもなく、批判や賛美もなく、あたかも資料集のように解説される。これは過去に島田氏がサリン事件の前にオウムに肩入れするような発言を行ったことで、サリン事件発生後、社会的な非難を一身に浴びたことと無縁ではないだろう。個人的には当時、島田氏がオウムを擁護するような発言をしてしまっていた背景は理解できなくもないし、また彼のインナーサークルに踏み込んだ上での研究の仕方というのは好きだったので、保守的な論調が増えてしまった最近の活動は少し物足りなかったりする。島田氏をいまだに非難する人たちから言わせると、彼が社会に復帰してきたことさえ許せないというのかもしれないが。

ちなみに、彼の著作は結構読んだが、一番好きなのは「フィールドとしての宗教体験」だ。ヤマギシ会に属していた経験などを語る本書から彼の宗教学者としての原点を垣間見ることができ、私は宗教にこそ属すことはなかった(「無宗教」という宗教以外には)が、すべてのことを「フィールドワーク」として考えることは彼の考えに影響されたものだ。実際、多くの組織-会社や学校というものも含めて-は宗教的であったり、コミューンであったりする。組織に帰属する立場として、すべてをフィールドワークと考えることでどんなに救われたことか。また、学んだことか。

ちょっと脱線したが、本書では以下の10の新宗教が取り上げられている。
正直、名前しか聞いたことのなかったものや名前さえ知らなかったものもある。このブログに書くのに、漢字変換に苦労するものもあったりして、IMEで一発変換できるかどうかでその宗教のポプュラリティがわかったりするものだとへんなところで感心をしたりもした。知ってどうなるというものでもないかもしれないが、遠いようでいて近い存在だったりする自分たちのまわりの宗教についての理解を深めたかったら、この本は簡潔にまとめているし、なかなかお勧め。ただ、本書でも紹介されている「新宗教の世界(全5巻」や「新宗教時代(全5巻)」というのがさらに詳しく解説されているようで、こちらも読んでみたくなった(このAmazonへのリンクで両方ともそのものずばりの書籍にすぐにたどり着かないんだけど、もうちょっと検索どうにかならんものか)。

2008年2月20日水曜日

コソボ独立

日曜日にMamma Mia!に行くまでに時間があったので、ニューヨークの町を歩いていたところ、なにやら若者が騒いでいる。車から身を乗り出して、暴走行為とまではいかなくても、縦横無断に走り回っている。見慣れない旗を振っているので、どっかの車関係の愛好者が集まっているのかなぁと思っていたら、時間とともに人数が増えていく。さらには、歩行者で参加する人も出てくる。

本当に始めはまったくわからなかった。警官も交通整理はするものの、取締りはしていなかったので、犯罪行為のようなものでないことはわかったのだが、さてなんだろうと考えることしばし。

しばらくすると、彼らの振っている旗に"Kosovo"(もしくは"Kosova")と書いてある。ここまで出されてもすぐにわからなかったところが、いかに出張に来てから新聞やTVを見ていないかの証拠なんだけど、さすがにちょっと考えいたらわかった。そうか、コソボ独立に関係しているのか。

"Thanks, USA!”とか書かれている旗もあったことから、どうやらコソボ独立を米国が支持したことを祝うデモンストレーションらしきものだとわかる。

それにしても、日曜日で混んでいるタイムズスクエアのあたりでこんなことが出来るなんて、好意的に考えれば自由な国だと思う。批判も出来るのかもしれないけど、今の私には情報不足なので、とりあえず「驚いた」ということだけをシェアしておきたい。

ちなみに、こういう話って、日本の新聞やTVでは取り上げられているのだろうか。こちらでは、ニューヨーク地元の新聞社のサイトなどいくつかでは紹介されていた。






















Mamma Mia! in New York City

日曜日のニューヨーク。WTCを見に行こうかと思ったのだが、昨日歩きすぎたためか体中が重い。仕方ないし、ちょうど良いので、ホテルでしばし仕事。

10時過ぎにホテルから出て、すぐ近くのtktsへ。ここはブロードウェイのミュージカルのチケットをディスカウントして販売しているところ。日曜日は11時から販売開始というのに、行ってみるとすでに長蛇の列。1つだけ短い列があったのだが、そこはPlay only。何のことかわからなかったら、スタッフと思われる男がやってきて、"This is for play only. No Music. Chicago, Mamma Mia, Chorus Line, go inside!"って言っている。なるほど。中の長い列に並ぶしかないのね。

11時になると販売開始したようで、列が進み始める。販売窓口がたくさんあるためか、進み方が速い。結構後ろ(でも、その後ろにもまだたくさん人は並んでいた)にいた私のところにくるまで30分もかからない。電光掲示板に各ショーのチケットのディスカウントレートが出ている。私が見たいMamma Mia!は50%のディスカウントらしい。それよりもまだ席が残っているかちょっと心配になったが、順番が来て、Mamma Mia!一枚って言ってみると、あっさりと購入できた。

2時からの開演なので、少し時間があるから、街を歩いてみる。なにやら車で騒いでいる連中がいて、なんだろうと思ったのだが、その話はまた後で(これはこれで面白い)。適当に見つけたBrewrery(昼はランチもある)でバッファローバーガーを食べる。なかなかうまい。

1時半くらいに劇場へ。すでに多くの人が並んでいる。中でスタッフが案内をしてくれる。チケットを良く見ていなかったのだが、A-5と書いてあるとおり、なんと最前列。正直、あまり見やすい場所ではない。だが、ふと前を見ると、バンドが舞台下で演奏するのが良く見えそう。これはこれで貴重な経験かもしれない。

ショーが始まった。いきなり大音量での演奏が始まる。当たり前だと思うが、演奏がうまい。ふと横を見ると、舞台中央の客席側にバンドマスターのような女性がいる。Macのほかにキーボードを2つくらい置いているようだ。自らも演奏しながら、指揮をしている。この女性(Wendy Bobbitt Cavettというらしい)がなかなかかっこよい。これも前の席だから見れたんだろうと思うと、この席も悪くない。

Mamma Mia!は有名なので知っている人がほとんどだと思うが、ABBAの音楽をテーマにしたもの。ストーリーもコミカルでわかりやすいので、英語力もそんなに必要ない。最初から最後まで楽しめた。それにしても、キャスト全員歌がうまい。

それにしても、バンドとの同期がぴったりとれている。舞台下を見ると、ドラムの横には舞台を映した小さなモニターがある。さらには、舞台中央客席側にいる件のバンドマスターはバンドと役者との両方に細かいに指示を出している。ここまでやれば完璧な音楽上の演出もできるだろう。日本でもMamma Mia!はやっていたと思うのだが、そこでも生演奏で行われているんだろうか。

本場のミュージカルを堪能し、素敵なひとときをすごせた。う~む、また来たいなぁ。

2008年2月19日火曜日

John Pizzarelli and Bucky Pizzarelli Live at Birdland in New York City

まだ続く土曜日のニューヨーク散策話。

セントラルパークを中心に、いくつかの施設を見た後、もう夕方になっているし、さすがに疲れたので、ホテルで一休み。夜の10時ちょっと前に目を覚まし、外出。行き先はすぐ近くのJazz Club、Birdland。

The CursadersのBluenoteでのライブに味を占めた私は、金曜日のうちにニューヨークのJazz Clubのスケジュールを確認し、近くのBirdlandでのライブを見に行くことに決めた。8時半からのステージと11時からのステージがあったのだが、8時半からのはすでにSold Outだったか何かで購入出来なかったので、躊躇することなく、11時スタートのステージを購入。参考にする人がいるかもいれないので、ここで紹介しておくと、チケットの購入は極めて簡単。Birdlandのサイトで購入できるので、最後にPDFフォーマットで出力されるチケットを印刷して持参するだけ。こちらはBluenoteの場合と違い、クレジットカードで実際に購入することになる(Bluenoteの場合は予約だけなので、クレジットカード情報などの入力は必要ない)。

10時過ぎに行ってみると、Bluenoteのときと同じように、すでに並んでいる。ここでも外で待つことになる。ニューヨークの寒い夜に外で待つのはなかなかつらい。雨や雪が降っていなかっただけでも感謝すべきかもしれないが。

チケットを見せたところ、店員が席を考えはじめた。1人で来たので、どこにすべきか考えてしまっているようだ。カウンターにするかとか聞いてくるので、それは勘弁して欲しい。なんのために事前にチケット買ったかわからんだろう。さすがに店員もそれには気づいたようで、結局、オーケストラ席という、かぶりつきというか、最前列の席をあてがってくれた。10ドル高くなるけど良いかというので、もちろん問題なしと答える。ただ、1人だったためか、端のほうの席。ちょっと見難いのだけれど、それは仕方ないか。次回行くときは、誰か友人を誘うようにするか、もしくはJazz Clubによってはカウンターで聴くことを考えても良いかもしれない。

John PizzarelliBucky Pizzarelliは名前が示すように親子だ。Buckyが父親。この2人のかもし出すジャズはいわゆるエンターテインメントとしてのジャズと言えるか。Johnのボーカルはちょっと艶っぽさにかけて、私の好みではなかった。少しカントリーが入っているとでも言えばわかってもらえるだろうか。ショーとしては非常にレベルの高いものだと思う。最初、Johnがバックとともに歌っていた(ギター演奏もしている)のだが、後半Buckyが参加してから盛り上がり方がすごい。Bucky Pizzarelliはすでに80歳を超えているはずなのだが、まったくそれを感じさせない。なんで、あんなに指が動くんだと思わせるくらい、器用にギターを扱う。JohnとBuckyが二人だけでギターデュオを行ったのだが、それがまるで掛け合い漫才かのよう。私が普段聞くジャズはとは異質なものであったが、本当に楽しめた。

ちなみに、端っこのほうの席だったが、そのために役得なこともいくつか。まず、ライブが始まる前に、Johnが話しかけてきた。食べていたBBQ Chicken Wingを見て、"How's that?"と話しかけてきたのだ。また、終わった後には、Buckyが握手を求めてきてくれたし。楽しんでいるのがわかったのだろうか。

いずれにしろ、楽しい夜だった。

Metropolitan Museum of Art(メトロポリタン美術館) in New York City

リンカーンセンターでジュリアード音楽院を見た後は、またセントラルパークに戻る。この公園は何か落ち着く。少し頭を上げて周りを見回せば高層ビルが広がり、都会のど真ん中であることを認識させられるが、一方自分の身の回りには緑が広がる。ベンチに腰掛け、若者がダンスに興じているのを見たりする。

セントラルパークをちょうど横切る形をとり、5th Ave.に戻り、北上して、メトロポリタン美術館に行く。ここは通称メット(The Met)と呼ばれているらしい。

ここの広さはアメリカ自然史博物館に匹敵する。いや、それよりも広いかもしれない。フロア数はアメリカ自然史博物館よりも少ないのだが、床面積はもしかしたらこちらのほうが広いのではないだろうか。しかも、中の迷路具合はアメリカ自然史博物館以上。もう、何度も迷った。

メトロポリタン美術館の最大の特徴はコレクションの多さだというが、これはまったくその通り。同じ表現ばかりで本当に恐縮(語彙の少なさが悲しい)だが、本当に圧倒される。古今東西の芸術が一同に介したという言葉しか思い浮かばない。ここも1日いても全部は見切れないだろう。

私の好きな画家の作品がここにも多く置いてある。MoMAで見た画家とほぼ同じなのだが、画家によってはこちらのほうが作品が多い。また、一部の画家はこちらにしか作品が展示されていない(当たり前だが)。私の好きな画家では、モジリアーニがこちらでは見ることができた。

あと、ダリの作品もこちらでしか見れなかったと思う(MoMAも所蔵しているようだが、私が行ったときには、どこかに貸し出しているという注意書きが貼られていた)。

こちらならではで面白かったのは、昔の楽器のコレクションが展示されていたところか。楽器というのも芸術品であることに間違いないが、多彩なデザインの施された古くの弦楽器や鍵盤楽器などを見ると、特にその思いが強くなる。

繰り返しになるが、1ヶ月くらい自由な時間をくれたら、ここも何回も訪れる場所になるだろう。ニューヨーカーが本当にうらやましい。

ちなみに、ニューヨークにはこのほかにも多くの美術館があるようであるが、とりあえずあとグッゲンハイム美術館 (Solomon R. Guggenheim Museum) を抑えておけば、多くの有名画家の作品は見られるようだ。本当はここも行きたかったんだが、さすがに時間と体力が残っていなかった。

送信者 Metropolitan ...

ジュリアード音楽院(Julliard School) in New York City

土曜日のニューヨーク散歩話はまだ続く。

ジュリアード音楽院と言えば、多くのジャズやクラッシクの音楽家を輩出している名門音楽大学として有名だ。この大学はリンカーンセンターの一部にある。行って一観光客が見れるような何かがあるのかわからなかったが、ミーハーな私は行かない理由は無い。近くに行って、Miles Davisが、Chick Coreaが学んだ場所を一目見ずにはいられない。

あとで気づいたのだが、Wikipediaには次のように書かれていた。

「リンカーンセンター内はセキュリティーが設置されているため安全だが、周辺はあまり治安が良いとはいえないため、写真つきのIDカードがないと構内に入ることは出来ない。」

なるほど。実は危ない場所だったのか。ここだけでないのだが、私はあまり危険な地域かどうかを確かめずにどんどん歩いてしまうところがある。今度から気をつけなければ。

リンカーンセンターは残念ながら、現在は工事中。なので、本来の姿かもしれないが、外からジュリアード音楽院を眺めた。入り口から入っていく学生と思われる若者達。そう思ってみると、皆天才に見える(なんて単純)。

ふと見ると、横にブックストアというのがある。一般人でも入れるのかわからなかったが、とりあえず入ってみる。中はかなり狭いが、クラッシクやジャズのスコアや書籍、それにLP、CDやお土産が所狭しと並べられている。しばし学生になったつもりになって、スコアなどを眺めてみる。私には価値がわからないが、きっとすごい貴重なものも売っているんだろう。床に座り込んで、ずっとスコアを眺めている若者もいる。んー、なんか良い感じだ。学生の真似を終わりにした後は、ミーハーな観光客に戻り、お土産を物色。結局、Tシャツを音符の形をした鉛筆を購入。

さてと、今度はバークリー音楽院かな。とか言ってみる (^^;;;

ジュリアードの青春―音楽に賭ける若者たち
ジュリアードの青春―音楽に賭ける若者たち

The American Museum of Natural History(アメリカ自然史博物館) in New York City

ニューヨーク話はまだまだ続く。まだ、先週の土曜日の話。

ダコタハウスを見た後、Central Park Ave.を北上し、アメリカ自然史博物館(The American Museum of Natural History)に行く。えっと、ここはありえないくらいに展示物が多い。って、それはここだけに限った話ではないんだけれども、まじめに見たら、ここの1フロアを見るだけで1日以上かかること間違いない。始めは丁寧に一つ一つを見ていたんだが、ほかにも行きたいところがあったので、泣く泣く、本当に興味のあるところだけを見る見方に変えた。それでも3時間くらいは館内にいたんじゃないだろうか。しかも館内が迷路のように入り組んでいる。私が方向音痴の所為だめかと思っていたら、同じように迷っている人があちこち。もうちょっと館内の案内をわかりやすい形に変えたほうが良いと思う。

展示物の数もすごいが、その展示の仕方も派手だ。土地が広大だとこのように贅沢にスペースを使うことができるのだろうか。また、訪問者が理解しやすいように、単なるテキストの説明だけでなく、ビデオを用いた説明、さらにはどこかのテーマパークかと思うような資金を豊富に使ったと思われるムービー形式の展示まで用意されている。

ただ、MoMAの感想のところにも少し書いたのだが、このような膨大な資産を持っていることのありがたみということを、ここを訪れる人がどのくらい理解しているのだろうか。幾人かの例外を除いては、訪問者の多くは私と同じように、見たいところだけを見るか、もしくは解説などにはまったく興味を示さず、派手な展示の撮影に懸命だった。

アメリカにいながらにして世界がわかるというのは、アメリカ人だけでなく、アメリカを訪れるほかの国の人間にとっても素晴らしいことであるが、それを当たり前と考えてはいけない。また、このような施設だけで、すべてを理解したつもりになってもいけないと思う。とまた、負け惜しみを言ってみる。

1ヶ月くらいニューヨークにいる機会があったら、是非隅から隅まできちんと解説を読んでみたいものだと思わせる施設だ。正直に言うが、うらやましい。

送信者 America Museu...

John Lennon思い出の場所 in New York City

ニューヨークの話はまだ続く。

土曜日は朝ゆっくり起きた後、朝食を取りに外に出る。セントラルパークに向かって北上していたら、ロックフェラーセンターがあったので、そこのスタバ(Starbucks)でホットチョコレートとサンドイッチを取る。有名なスケートリンクを室内から眺めて、まったりと朝の時間を過ごす。

外に出てみると、呼子のお兄ちゃんが展望室/展望デッキに行ってみないかと言う。ガイドブックには、並ばないといけないとか書いてあったので、どのくらい待つのかと聞いてみると、まったく待たないという。オフシーズンだからか。ディスカウントチケットもくれたので、それを使ってチケットを購入し、展望室/展望デッキへ。確かに眺めは良い。こうやって見ると、ニューヨークって本当に古い町並みと開発された新しい街並みが混在しているのがわかる。人種もそうだが、この混沌としているところがこの街の魅力か。

しばしロックフェラーセンターからの展望を堪能した後、5th Ave.を北上して、セントラルパークへ向かう。

セントラルパークはいろいろな映画や音楽でそのイメージは自分の中で沸いていたが、ほぼそれと同じ。ジョギングしている人、近所に住んでいると思われる散歩している人。それに少なくない観光客。いろんな人たちがここに集っているが、落ち着いた雰囲気は失われていない。都心の中にこれだけの広大な敷地で緑を確保できるのはうらやましい。東京にも広大な緑の敷地はあるけど、一般人は入れない。

セントラルパークの中を西に向かう。行き先は"Strawberry Fields"。John Lennonが亡くなったダコタハウス(Dakota House)の近くにある。"Imagine"という文字が地面に刻み込まれている場所だ。

跪き、花やJohn Lennonへの祈念と思われる品を並べている男性がいる。何か圧倒されるものがあったので、話しかけられなかったが、彼はいつもここに来ているのだろうか。

ダコタハウスはセントラルパークのすぐ隣。映画「チャプター27」でダコタハウスから散歩できる距離にあることは知っていたのだが、(映画の中ではセントラルパークを散歩するJohnの息子Seanと犯人Markが出会っていたという事実が紹介されている)、こんなに近いとは思わなかった。高級住宅街と言われるだけあり、あまり危険を感じない場所だ。地下鉄の出入り口もダコタハウスに隣接しているし。

送信者 Strawberry Fi...

2008年2月18日月曜日

The Crusaders Live in Bluenote (New York)

まだ、ニューヨーク話は続く。先週の金曜日は、久しぶりに夜に会社の予定が何も入っていなかったので、Bluenoteへ行ってきた。東京のBluenoteへは何度も行ったことがあるのだが、やはり音楽ファンとしては、本番のBluenoteに行かねばなるまい。

正直に言うと、Bluenoteである必然性はなく、BirdlandでもVillage Vanguard(本屋じゃない。念のため)でも良かったんだが、事前にネットで調べたところ、BluenoteにちょうどThe Crusadersが来ているという。行かねば。1st Stageが売切れてしまっていたので、10:30からの2nd Stageのチケットを予約。ちなみに、ほかの人の参考になるかもしれないので、書いておくと、Bluenote(New York)のチケットはBluenoteの英語のサイトから購入できる。購入の際にはクレジットカード情報など必要ない。名前やコンタクト先の情報を入力するだけ。これでReservation Codeが取得できる。ウェブサイトでは、それを店で言うようにと書かれているが、実際には名前を言うだけで大丈夫だった。

30分前には並べというので、簡単に腹ごしらえをしてから、タクシーで店へ。10:00ちょっと前ごろに到着。見ると、すでに長い列。これって予約していない人たちじゃないかという疑問(希望とも言う。だって寒い夜に外で待ちたくない)があったので、列の最後尾の人に、これって予約している人の列かと聞いてみる。答えは残念ながら"Yes"。

仕方なく、寒空の中を30分近く待つ。こういう点、東京のBluenoteは良い。待つことは待つけど、ちゃんと室内で待てる。

今回のThe Crusadersのメンバーは以下の布陣。
Joe SampleやSteve Gaddを生で聴くなんて何年ぶりだろう。Joe Sampleは確かソロ来たときに、中野サンプラザで聴いたのが最後だったはず。あれは私が大学3年のころだったから、すでに20年以上も前か。Steve Gaddは誰かのバックで来ていたの見ていると思うので、Joe Sampleよりも最近に見てはいると思うが、それでもかなり久しぶり。

ライブは淡々と開始されたが、日本で見るのと違い、曲の合間のしゃべりが結構ある。Joeがあんなにしゃべる人だとは思わなかった。もっとも、コンサート会場以外で彼のライブを見たことがないので、もしかしたら日本でもしゃべる人なのかもしれない。

演奏はまったく年齢を感じさせない。こんな月並みなことしか言えないのが悲しいが、本当にそう感じた。ちょうど私の席からはSteve Gaddが一番良く見えたのだが、彼の腕は筋肉で盛り上がっている。こんなに近くで見たのは初めてなので、今回初めて発見したのだが、軽く叩いているように見えるときでも、実はかなり筋肉を使っている。スネア1つを普通に叩いているように見えても、実はすごい細かい筋肉の制御があるようだ。彼のドラムを見ているだけでもうっとりしてくる。

ちょっとだけ違和感を感じたのが、Hiram Bullockのギター。彼らしいギターなんだけれど、ちょっとCrusadersの音と合っていないように感じた。少しうるさいように個人的には感じた。シングルコイルの生音をもっと使ってくれれば色っぽい音で合うと思うのだが。私はLarry Carltonのシングルコイルの艶っぽい音を愛してやまない(もちろんGibson 335の音も好き)ので、ちょっと偏見が入っているかもしれない。

店の2Fにはギフトショップがあり、東京のBluenoteでは売っていないものも多く置いてあった。買いたい衝動に駆られたが、すでに荷物が多くなってきているので、ぐっと我慢する。

壁にはMiles Davisが描いたというArtworkが。なんか、こういうのを見ると、さすが本場という感じがする。ミーハーだけど。

実は、室内はライブも含めて撮影がOKのようだ。最初のアナウンスのときに「フラッシュ撮影は禁止」と言っていたので、「えっ、じゃあ、普通(フラッシュなし)の撮影はいいの?」と思っていたのだが、普通に現地(かどうかわからないがアメリカ人と思われる人々)も撮影している。

私も撮影したんだが、フラッシュを焚かないで撮ったら、ボケボケになってしまったので、捨てた。写真は無くても、きちんと脳裏に焼きついているからいいか。

ちなみに、検索してみて気づいたのだが、The Crusadersは近々来日するらしい。


<注> 一度投稿してから、若干追加した。

Blue Man Group in New York City

これも先週の日曜日の話の続き。

MoMAから帰ってきてホテルにチェックインし、無線LANでネットに繋げると、別件で同じくニューヨークに来ている同僚からすぐにIMでチャットが入る。

「着きましたか?」

「ええ、チェックイン時間前に着いちゃったんで、MoMAに行って来たんですが、よかったですよ。で、今、チェックインしたところ」

「じゃ、行きますか?」

「へ? どこへ?」

「Blue Man Group」

「なんだっけ? あー、聞いたことある。オフブロードウェイでやっているやつですよね」

「チケット取ってありますんで」

と言うことで、Astor Place Theatreで行われているBlue Man Groupのショーを見てきた。で、Blue Man Groupって何? っていう詳しい説明はWikipediaのそれ英語の公式サイト日本でのショーのための公式サイトに譲るが、ざっくり言ってしまうと、青塗りした男達が繰り広げる、前衛的かつシニカルでリズミカルなショーだ。まったくしゃべらないので、英語力はあまり必要ではないが、文字で読ませる部分はあるので、すばやい読解力はあると良い。ここで出てくる英語もまた皮肉が効いていて気持ちよい。

インターミッションなどを挟まなず、すごい勢いでショーは行われる。観客をうまくショーの中に取り込んで、一瞬も油断をさせない。純粋に音楽として聴くだけでも非常にレベルが高いのだが、そこにコメディの要素がうまく組み合わさっている。このコメディの部分は、日本で言うベタなお笑い的な、もしくは体当たり的なものもあるのだが、書いたようにシニカルで思わず苦笑いさせられるようなものもある。

とにかく、ニューヨーク初日からいきなりがつんとやられた感じだ。

舞台終了後、Blue Man達は観客達を見送りに出てきてくれる。写真ももちろんOK。

みんなで写真を競うようにして撮り合っていたが、彼らは観客全員が引くまで、残っていたので、競う必要は無かったみたい。

このサービス精神はさすがだ。

公式サイトやYouTubeなどにもBlue Man Groupのパフォーマンスが一部載せられているようだから、興味持った人は是非見てみて欲しい。もっとも、生のショーでないとなかなかわからない部分もあると思うが。

ところで、東京でのBlue Man Groupのショーは専門に作られた劇場で行われているという。確かに、彼らのパフォーマンスはハコ(劇場)を選ぶだろう。専用の劇場を作るのは良いと思うのだが、なんと座席数が900あるという。Astor Place Theatreは300(そんなにあったっけと思うくらい、もっと狭く感じる)。900だと観客との一体感がどこまで生まれるのかちょっと心配。なんでも、両方(東京とニューヨークのオフブロードウェイ)に行ったことがある人に言わせると、内容も若干違うらしい。ということで、東京で見た人もニューヨークで見ると良いだろう。

下の写真はチケットとチラシとお土産に同僚が買ってくれたBlue Manの手形のシール。みんなでPCに貼るらしい(まぢですか?)。素晴らしい夜に誘ってくれた同僚に感謝。

送信者 Blue Man Grou...


ニューヨーク近代美術館(MoMA: Museum of Modern Art)

先週の日曜日にワシントンD.C.からニューヨークに移動。ラガーディア空港(LaGuardia Airport)からはミッドタウンのホテルまでタクシーで来るが、途中の街並みなどについきょろきょろする。おのぼりさんみたいだけど、本当におのぼりさんだから仕方ない。ホテルに着いたのがチェックイン時刻前だったので、部屋には入れず、荷物だけを預ける。この日は特に予定ないので、行ってみたかったニューヨーク近代美術館(MoMA)に行ってみることにする。ホテルからは歩いて10分ちょっとくらい。

入場料は20ドル。1F で荷物やコートをチェックインできるのだが、PCはチェックインさせてもらえない。どうすれば良いかと聞くと、手で持って行けという。げっ、と思ったけど、ほかに選択肢がないので、手で持っていく。

フロアガイドを見て、ここは最上階から降りてきたほうが良さそうと思い、5Fへ(特別展示を行う6Fが本当は最上階だけど工事中なので、今は5Fが最上階となる)。

5Fにはピカソやクレー、キリコ、シャガール、クリムト、ゴッホ、セザンヌ、モネなど。日本だったら、この階の展示だけで1つの展覧会を余裕で開けるだろう。これら巨匠の作品が、大して混んでもいないので、ゆっくりと見ることができる。たとえば、写真は有名なピカソの「アヴィニョンの娘たち」だけど、これを1時間でも見てられる。私はシャガールが好きなので、シャガールの絵を堪能させてもらった。

ふと見ると、ゴッホの「星月夜」を一生懸命模写している少年がいる。写真じゃわからないだろうけど、これがなかなかうまい。こういった環境がいつも近くにあると、自然と芸術にも親しむようになるだろうし、また才能も伸びていくのだろうと思う。圧倒的な物量による富の集中を具現化しているようなアメリカであるが、才能のある人を集め育てるということにおいては、成功しているのかも。など、この少年を見て感じた。

4Fはいわゆる現代アート。ウォーホール、リキテンスタインなどの作品が飾られている。


3Fはいわゆるデザイン。デザインの優れた工業製品などが展示されているのだが、KDDI au design projectの携帯電話達も飾られていた。

自分の持っているMedia Skinもある(写真では右端)。どういう基準で選ばれているのかわからないが、ほかにもソニー製品が置かれていたように思う。こんなところで、日本製品を見つけて喜んでしまうなんて、なんて「日本人」って思ってしまう。普段は外資系に勤めているので、アメリカに魂を売ったのかなんて非難されているから、その反動か(冗談)。

2Fでは広い展示スペースを活かして、比較的大きな現代アートの作品などが置かれている。私が面白いと思ったのは、部屋の面すべてを楽譜で覆い尽くした次の作品。


Hanne Darbovenの"Wende>80<(Turning Point >80<)"という作品らしい。写真じゃなかなかわからないと思うのだが、この部屋には何か吸い込まれるようなものがある。

最後に1Fにはギフトショップがある。

MoMAは作品の数が非常に多いのだが、整然と展示されているために、非常にわかりやすい。ミッドタウンの真ん中にあるのも良い。到着してすぐにでも見ることができるし、出発前に時間があるときに寄ることだって不可能じゃないだろう。その手軽さが良い。

MoMA in New York City


ニューヨーク近代美術館350作品ガイド
ニューヨーク近代美術館350作品ガイド

2008年2月13日水曜日

レバレッジ時間術―ノーリスク・ハイリターンの成功原則

勝間氏の「効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法」の中ではフォトリーディングの参考書として「レバレッジ・リーディング」が紹介されていたが、同じ著者が書いた時間術の本が新書であったので買ってみた。

書かれている根っこの部分は勝間氏が書いていることと共通する部分がある。それは習慣化すること。どんなに良いやり方を誰かから教授されても、または自分で見つけ出しても、習慣化して続けなければ意味が無い。

本書では少ない手間で多くの結果を生み出す(そのため「レバレッジ」と呼んでいる)方法を解説し、それをルーティンワーク化することを勧めている。"Doing More With Less"という言葉で効率化を進めることを説明している。どっかで聞いた言葉だ (^^;;;;

時間術の基本を著者は次の3つに分類する。
  1. 俯瞰逆算スケジュール(大局から見て、さらに逆算でスケジューリングすること。事業計画やプロジェクト計画で行っていることを個人にも適用すれば良い)
  2. 時間割(「インプット」、「アウトプット」、「生活」、「プライベート」に分類し、この順番でスケジュールを埋めていく。家計簿と同じように、「時間家計簿」をまず書き、どの分類にどれだけ時間をかけているかを最初に、そして定期的に見直すと良い)
  3. タスクリスト(「成果をあげるために今必要なリスト」であり、やらなければいけないことのリストではない-これはToDoリスト)
どれも言われてみれば基本的なことばかりだ。2の時間割のところで、あらかじめ必要な時間を「天引き」してしまうことを著者は勧めている。つまり、英語の勉強(これはインプットに分類される)とか知人との会食とか(これは内容にもよるが、インプットかプライベートかのどちらになろう)をあからじめスケジュールに入れてしまうのだ。会食の場合は会う相手が決まっていなくてもかまわない。プライベートでリフレッシュするのか、情報交換なのかなど明確な目的がある場合は、あらかじめスケジュールをブロックしておく。これにより、日常の仕事(アウトプット)により時間が削られてしまうことを避けることができる。必然的に仕事に割ける時間が少なくなるが、これにより集中力が高まり、必要なことのみを効率よくこなすことができる。確かに、「今日は待ち合わせがあるから、7時までに会社を出なければいけない」と思っているときのほうが死に物狂いで仕事をこなして、かえって効率が良かったりするだろう。

実は同じようなことを私はしている。ボーっとしていると、どんどんスケジュールを入れられてしまい、自分の席にほとんどいないというようなことが起きてしまうので、あらかじめ自分用にスケジュールを確保しているのだ。もっとも、それらの多くは「インプット」や「プライベート」用よりも「アウトプット」用のものである。打ち合わせが多すぎて、自分でスケジュールを確保しておかないと、メールをチェックする時間も、ミーティングの結果でアクションアイテムとなったものもこなす時間がなくなってしまうからだ。

ちょっと脱線するが、そういう予定に「1人になりたい」とか「そっとしておいて」という名前をつけて、小さいミーティングルームを確保して、1人で篭って仕事していたことがあるのだが、会社の人間にはスケジュール帳(Google Calendarだ)をオープンにしているので、この奇天烈なタイトルの予定がばれていて、ひそかに笑いものになっていたらしい。

本書に書かれている内容はどれも非常に常識的な話なので、すぐにでも実践したいと考える人も多いだろうが、私もその1人だ。安請け合いして仕事を引き受けすぎてしまって、結果どれも大きな成果が出ないというのが典型的な時間管理の下手な人間の例だと思うのだが、今の私にかなり当てはまる。

ただ、本書では、人間として羽目をはずすことまで、無駄と位置づけているように思う。呑みすぎや寝すぎなど、人間としての特権だと思うので、悪いがここだけは譲れない。ボーっとすることだって大事だろう。「脳が若返る30の方法」や「40歳から頭がよくなるちょっとした方法―医者が実践している」にもそのような解説があった。さらにもっと言えば、血の通った人間なんだから、人間としての欠点を愛せるのも大事だろう。

と自己弁護しておく (^^;;;

レバレッジ時間術―ノーリスク・ハイリターンの成功原則 (幻冬舎新書 ほ 2-1)
本田 直之

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