2007年2月23日金曜日

宗教としてのバブル

宗教学者 島田裕巳氏というと、私の世代では、やはりオウムとの関わりで、良くも悪くも記憶に残っている。私が学生のころか、社会人になったばかりのころ、カルト教団と呼ばれる新興宗教がいくつか登場した。それらを宝島などで論説していたのが確か島田氏だったと思う。一連のオウム事件の結果、一時的に社会から抹殺される形になってしまっていたようだが、ここ最近また名前を見るようになってきた。本書もその一冊。

宗教としてのバブル

本書では、バブルとは一種の宗教ではないのかと問いかける。
 社会学者の橋爪大三郎は、宗教を定義して、就業とは「必ずしも自明でない前提にもとづいて行動する、一群の人びとの活動の全体」であるとしている(『言語派社会学の原理』洋泉社)。「必ずしも自明でない前提」とは、神は実在するとか、仏は悟りを開いたといった、客観的な形で外側から証明できないことを意味している。まさに土地神話や株価神話は、本来自明ではないという点で、橋爪の言う宗教に該当する。
バブルは1985年のプラザ合意がきっかけとなり生まれたといわれているが、筆者はそれに疑問を呈する。実際に、それ以前からバブルの萌芽と思われるものが見えていたことを実証する。バブルの検証というものは、おそらく多くの団体や評論家、学者によって行われているのだろうが、実際のバブルもしくはプレバブルと呼ばれる状況にあったのがいつからか、そして、その原因は何かを探ることは重要だ。

さらに筆者は団塊の世代、その下の世代、さらにはバブル世代(新人類とも呼ばれた)、そして現代のバブルを知らない世代、それぞれの特徴を分析し、バブル崩壊と団塊の世代の大量退職により、急激に世代交代が進むのではないかと示唆する。確かに、団塊の世代の次のリーダーは途中の世代が中抜きされたかのように、一気に40代や30代から抜擢されるケースが多い。30代前半はバブルを知らない世代だ。この世代が今後バブルのような状況が再度発生したときに、どのように振舞うかによって、日本の経済や文化が左右されるだろう。

バブルを知っている30代後半から40代前半の人にお勧め。プチバブルやバブルの再来に備えて、何を考えておくべきか知るには良書だ。バブルとは何だったか、省みるだけでも役立つ。もっとも、それだけのためならば、もっとほかにも適切な書籍があるような気がするが。

2007年2月18日日曜日

ウェブ人間論

昨年のベストセラー「ウェブ進化論」の著者梅田望夫氏と芥川賞作家である平野啓一郎氏との対談を収めた一冊。

インターネットが人間生活に与える影響をシリコンバレー在住のコンサルタントである梅田氏とと作家の平野氏が話し合ったのであるが、この2人の考えの違いはそのような分野の違いだけでなく、世代の違いにもよる。梅田氏が1960年生まれなのに対して、平野氏は1975年生まれ。そうネット第3世代と言われる世代だ。学生時代にはもうインターネットがあった連中だから、インターネットとの距離感も違う。私は梅田氏よりは若いが、それでもインターネット上で普通にコミュニケーションできるようになったのは社会人になってからだ。もちろん、学生時代には携帯も無かった。

この対談の中にも出てくるが、もし自分が大学生のときに、パーソナルコミュニケーションツールである携帯電話が普及しており、SNSが一般的だったならば、学生時代はどのように変わっていただろうかと考える。

ウェブ人間論
梅田 望夫 平野 啓一郎
4106101939


本書でもインターネット上の匿名性についての考察がなされている。平野氏はネット上でブログを行う人を次の5種類に分類しているが、これがなかなか面白い分類になっている。
 一つは、梅田さんみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
 二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できない自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かり合える人たち同士で割りと気安い交流が行われているもの。
 この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
 三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際はあまり人に公開するという意識も強くないかもしれない。
 四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
 で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますが、ネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気がつかないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
 この五種類が、だいたいネット世界の言説の中にあると僕は考えるんです。一番目と二番目については、ネットに対して最も保守的な考えの人でも、多分、否定的には見ないでしょう。三番目は、やっぱり、自分を確認したいというのと、自分のはかなく過ぎ去っていく日々を留めおきたいという気持ちとがあるんだと思います。よく問題になるのは、四番目と五番目ですね。その時に、リアル社会のフラストレーションが、「自分の本音は本当こうなんだ」という四番目の方に向かうのか、五番目の空想的な人格の方に向かうのかは分かれるところだと思いますが。
どこかで私も書いた覚えがあると思うが、ネット上の人格というのも認めてかまわないと思う。人格というのは多面性があり、常に1つの仮面だけを持つものでない。ドメインが異なれば、異なったドメイン用の仮面をつけてかまわないと思う。それをリアルな世界の実名のままで行うのも自由だし、ネット上の別人格を作り上げて、その仮面をかぶって、活動するのも良いと思う。ただ、私が否定的なのは、人格をまったく持たずに、無責任に安易な「匿名」というものに流れてしまう傾向だ。「インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門」でも書いたように、インターネット上の慣習を作り上げるのに妨げになる。

あと、私の別ブログで「ネットを意識した名前付け」という投稿を以前したのだが、そこで書かれているのと同じことが本書には書かれていた。
 逆に、商品名みたいな新しい言葉を思いついたときは、検索で引っかかってほしいと思う場合もありますよね。そのときは、空いているスペースを探すという方法があります。僕は自分の本のタイトルを、グーグルで空いているスペースから探してつけるんですよ。『ウェブ進化論』も空いてたんです。
ただ、実は、この話の前には逆のケースが書かれている。
 それから、工夫するんです。子供の名前を有名人と同じ名前にしておけば、隠れ蓑になって検索エンジンに引っかからないんじゃないか、とか。これからは、そういうことを考えていく時代になるんじゃないかと思うんです。
<中略>
 ある平野という姓のお父さんが「平野啓一郎と検索しても、作家の平野啓一郎が出てくるから、こいつは検索されずにかなり長いこと幸せに暮らしていけるであろう」と思って、子供に啓一郎という名前をつけるというのは有りだと思う。
これは考えさせる内容だ。自分は検索されにくようにというのは考えもしなかったが、どのようにネットの上で生きていくかによって異なる考えがあるのだろう。このような考えも、ネットがもっと社会に溶け込むようになるにしたがって、一般的な考えというのが定着するのかと思う。

木村多江さんDVD「台湾瞬色」


木村多江さんのDVDを購入した。まさか自分が女優さんの写真集だけじゃなく、DVDまで購入するとは想像もしなかった。

木村多江 台湾瞬色

ひどいことにアマゾンにはDVDの写真が無い。どんな扱いだ?! ということで、DVDパッケージ写真を載せておく。

中身は友人2名と台湾を旅行する多江さんの密着取材という感じ。こちらが本編。45分ほど。パッケージにあるように、ショートカットの多江さんだけど、個人的にはもう少し長い髪のほうが似合うのではないかと。

ほかには写真集のメイキングとスペシャルインタビュー。スペシャルインタビューで音声と動画が同期されていないように感じたが、これはうちのDVDプレーヤーの問題か?

声を聞いているだけでも癒されるのだが、ポッドキャストでもやってくれないだろうか。

Tuck & Pattiのブルーノート東京公演

Tuck & Pattiが来日」で「行きたーい」と言っていたTuck & Patti(タック&パティ)の来日公演に昨夜行ってきた。場所はブルーノート東京。2回あるステージのうちの19時開演の最初のほう。

送信者 Tuck & Patti ...


到着が少し遅くなってしまったので、席は端のほうだった。でも、ステージからの物理的な距離は近い。

前回、私が見に来たときは、ピアノを入れていたが、今回は純粋に2人だけのライブ。Pattiの深い歌声が響く。ふと足元を見ると、Pattiは裸足だ。Tuckは左足をボリュームペダルにずっとかけており、ボリュームを細かに調整。1つのノートでもその残響にコントロールをかけているようだ。その隣にも機器らしきものが見えたが、そちらは演奏中は触っていなかった。もしかしたら、チューナーとかぐらいしかなかったのかもしれない。前半のTuckの演奏はちょっと荒い感じがした。ボリュームペダルでのボリュームコントロールも少し耳につくところがある。でも、そんなには気にならない。

前半が終わって、後半に突入かと思うころ、Pattiがステージを降り、Tuckだけのソロ演奏となる。それまではPattiがMCを務めていたが、ここではTuckが話す。「次の曲は古い有名な曲だ。んー。名前は忘れた。聴けばきっと思い出すよ」。確かに聴いたことはあったんだが、思い出せない。なんだっけ? ソロ2曲目はサンタナの「ヨーロッパ(哀愁のヨーロッパ)」。この演奏が圧巻。Tuckがチョーキング(Bending)するのなんて、初めて見た。最後にはお馴染のタッピングによるハーモニクス。近くで見れたんだけど、なんであんなに多彩な音が出せるかはやっぱり謎。

この2曲の後、Pattiが戻ってきて、さらに2人で2曲ほど演奏して終了。最後の曲はシンディローパーの「タイムアフタータイム」。Pattiが演奏の最後にメロディーに乗せて、客席に語りかけ、そして全員で合唱。拍手に送られて、彼らの演奏は終了。蛇足だが、戻ってきたPattiはきちんと靴を履いていた。

前回来たときはTuckやPattiの英語が客席には理解されていないように見えたが、今回は客の英語力が高いのか、きちんとコミュニケーションできている。土曜日だとそうなのか(ちなみに、前回は平日に来た)。

TuckとPattiの熱い思いに触れることもでき、非常に満足。彼らもすごいエネルギーを使ったと思うのだが、われわれの見た後、もう1回ステージがある。パワフルな連中だ。

参考:
ブルーノートでの夕飯

異邦人たちのパリ@国立新美術館

昨日、開館されたばかりの国立新美術館で開催されている「異邦人たちのパリ 1900-2005 - ポンピドー・センター所蔵作品展」に行ってきた。この展覧会はタイトルのとおり、異国よりパリにやってきた芸術家たちの作品の展覧会。ほとんどの作品はポンピドー・センター所蔵のもの。

送信者 異邦人たちのパリ


混んでいるのではないかと思ったので、日時指定のちょっとだけ高い前売りチケット(指定されている時間に行けば、並ばずに入れるというチケット)を買って行ったのだが、あまり混んでいなくて、特にこの日時指定チケットでなくても、余裕で並ばずに入れた orz。ただ、特典として、絵葉書を1枚もらえた V(^^)V。

入り口で音声ガイド(500円)を借りて、いざ中へ。中もそんなには混んでいない。1つの絵の前でしばらく佇んでいても迷惑にならないくらいだ。

中は時代ごとに4つのセクションに分かれている。セクション1は「モンマルトルからモンパルナスへ」、セクション2は「外から来た抽象」、セクション3は「パリにおける具象革命」、そして最後のセクション4は「マルチカルチャーの都・パリ」。

各セクションの中では、やはりセクション1が一番気に入った。セクション1の中ではこの展覧会のチラシにもなっているレオナール・フジタ(藤田嗣治)にまず目を引かれた。

送信者 異邦人たちのパリ


乳白色の肌と日本画を踏襲されたとも言われる細い輪郭線。じっくりと見たのは初めてだったが、斬新な中にも繊細な美しさに、しばし作品の前を離れられなかった。

マルク・シャガール
も同時代の画家の1人。以前よりシャガールは好きで、実家にもシャガールのリトグラフがあったほどだ。ここではエッフェル塔の新郎新婦など数点の作品を見ることができる。

あと、日本人画家では、荻須高徳に注目した。この画家の作品は今回初めて見たが、佐伯雄三に近いものを感じた。人がいないにもかかわらず、人のざわめきを感じさせる街角の風景画。当時のパリの様子を垣間見ることができる。

国立新美術館は黒川紀章氏の設計だそうで、それもあってか、黒川紀章展も開催されていた。中は広々とした空間であり、とても居心地が良い。また、何か良い展示/展覧会があったら来よう。

送信者 異邦人たちのパリ


送信者 異邦人たちのパリ


送信者 異邦人たちのパリ


お土産にはポンピドー・センターのTシャツと絵葉書4枚。

送信者 異邦人たちのパリ


堪能 (^_^)。

2007年2月15日木曜日

生まれて初めての写真集

なんでも、昨年発売されたのが木村多江さんの最後の写真集だとか。同居人が「今買わないと、もう買えなくなるかもしれない」というので、今まで発売された2冊の写真集を買ってみた。

実は、写真集というものを買ってみたのは生まれて初めてだったりする。

木村多江 写真集 「余白、その色。」
小池 伸一郎
4847027914


木村多江写真集「秘色の哭」
熊谷 貫
4847029747


う~ん。美しい。でも、なんか恥ずかしい。どういう顔して、こういう写真集って見れば良いのか?

2007年2月14日水曜日

11弦ベースによる超絶技巧

YouTubeの超絶技巧シリーズその2。11弦ベースでスーパマリオのテーマ演奏。このベースってカスタムメイド? なかなかうまい。



関連投稿:
YouTubeで見る超絶技巧プレイ

日本コンピュータの黎明―富士通・池田敏雄の生と死

コンピュータ歴史博物館(Computer History Museum)というその名の通りコンピュータの歴史を展示した博物館がカリフォルニア州マウンテンビューにある。そこでは現在、博物館のフェローアワード(Museum Fellow Awards)の候補者を選定している。もうすでに多くのコンピュータ史上有名な人がアワードを受賞しているが、まだ日本から受賞者はいない。可能ならば、日本からも受賞者が出て欲しい。日本からのコンピュータ科学・産業への貢献は決して小さくはないのだから。

そんなことを考えた時、真っ先に思い浮かんだのが、富士通の池田敏雄氏だ。池田氏は富士通の初期のコンピュータの設計・開発を指揮し、その後、日立と提携しIBM互換機路線へと転換する際にも、キーマンの1人であった、日本のコンピュータ史を語る上で欠かすことのできない人物である。残念ながら、私は見れなかったが、NHKのプロジェクトXでも取り上げられたことがあるようなので、ご覧になったことのある方もいるかもしれない。(ちなみに、ここで言っているIBM互換機とはIBM互換PCのことではない。IBMメインフレームの互換機のことだ。念のため。)

その池田氏の生涯を著したのが、本書だ。

日本コンピュータの黎明―富士通・池田敏雄の生と死
田原 総一朗
4167356139

本書では、池田氏の生涯を追っているが、それとともに、富士通の、そして日本の、さらには世界のコンピュータ開発の歴史を解説している。まさに、IBM互換機といわれてIBM互換PCしか思い浮かばない若い人にこそ読んで欲しい本だ。日本にもかつて世界を相手に互角に渡り合おうという時代があったことを知って欲しいと思う。今も、もちろん世界を相手に激しい技術競争が繰り広げられているが、今とは違った時代背景での開発競争を知ることで、得ることも多いだろう。

本書は1992年にハードカバーで出版されており、その後、文庫になった。私はハードカバーのものを購入してあったが、今回、コンピュータ歴史博物館のフェローの話があったので、改めて読み直してみた。で、読み直してから、気付いたのであるが、コンピュータ歴史博物館のフェローは存命中の人しか推薦できないようだ orz。

ちなみに、池田氏が最後にIBM互換機で公私ともに支援をしたアムダール氏は1998年のフェローを受賞している。

参考情報:

2007年2月11日日曜日

インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門

インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門
白田 秀彰
4797334673


新書365冊」のあとがきで良書として紹介されていたのを読んで、本書を手に取った。

はじめはインターネットにかかわる法律、たとえば著作権などについて解説している本だと思っていたのだが、良い意味で大きく裏切られた。(もし、そのような書籍を希望するならば、私が昨年読んだ「インターネット時代の著作権―実例がわかるQ&A付」を薦める。)

もちろん、中で著作権とインターネットの関係などについても解説されているが、本書の目的はそのようなものではない。インターネットという新しい社会基盤の中でどのように「法と慣習」が形成され、根付いていくかが解説されている。いわゆる、法学の授業をインターネットをフィールドスタディの場として行っているような感じだ。

普通ならば、難しくなる可能性のある法学の解説もインターネットを例にとることで、非常にわかりやすくなっている。ただし、HotWiredでのコラム連載が元になっているためか、章立てなどにまとまりがない。思いついたものを書き連ねている感じは否めない。読んでいる最中は気にならないのであるが、読み終わった後に、気になった箇所を再度読み直そうとしても見つけるのが難しい。もう少し加筆し、全体の構成を見直すなど、全面改訂してもらってから出版してもらえば、もっと良い本になったろう。

本書の中で、インターネットの匿名性について記述している部分があるが、私はそこに一番共感を持った。第2章「権利をしっかり知っておく」の「名誉と自力救済そして法」で
  • ネットワークで何の助けもなく所有しうるものは「名」である
  • 自立的な秩序を形成するためには、「名」を所有する必要がある
  • 「名無しさん」の海にまどろむことの危険について考えてほしい
というような内容が書かれている。ちょっと長くなるが、著者の主張がもっとも現れていると思う部分を引用しよう。
 ネットワークで法を生み出そうとするならば、責任を引き受ける覚悟ある独立した個人が、主体にならなければならない。というか、西洋法の歴史において法発展は、責任を負う独立した人々によってなされてきた。ネットワークが完全匿名の遊戯的世界でよいと考えるなら、現実世界の権力の介入を招き、そこからさらに逃避していくためには、実力行使としてのクラッキング技術が必要になるだろう。その結果、さらなる混沌とより一層の権力の介入を招き、圧倒的多数の利用者がID管理システムの下に置かれる一方、技術エリートたちのみが自由であるような実力主義世界になってしまう。これは、最悪とは言わないにしろ、明るいシナリオではない。
 ネットワークに法をもたらすには、他人の力に依存しないで自力救済の精神と、それを支える手続き的正義の実現、その手続き的正義を支える名誉感情、権利意識といった、えらく騎士道的な精神態度が要求される。
<中略>
 自らの力と正義に恃み(たのみ)、責任を背景に決闘を行う西部劇的精神は、よかれあしかれ、ネットワーク時代の法発展を駆動している。お上に恃み、集団に溶け込むことをよしとする日本の法文化があることは事実。しかし、「名無しさん」の海にまどろむことの危険について少しだけ考えてほしい。現実世界の人格を賭ける必要はない。ネットワークにおける「名」を賭けて活動する武士道・騎士道精神を持ってほしい、とお願いするのは、やっぱり時代錯誤なのだろうか。
ここで言う、「ネットワークにおける名」というのは、必ずしも現実世界(リアルワールド)での本名である必要はない。固定ハンドルのようなものでかまわない。ネットの世界の1人格を表すものとしての「名」が必要であり、常に匿名で書くことはふさわしくないのではないかと筆者は、そして私も考える。

インターネットの慣習は利用者が作り上げていくものであるが、そろそろどのような世界をインターネットで作り上げようとしているのかを利用者自身が考えはじめるべきだろう。

なお、恥ずかしい話、私は英米法(判例主義)と大陸法(法律主義)の違いを知らなかった。覚えておくこと > 自分

次世代ウェブ グーグルの次のモデル

Web 2.0という用語はそれ自体が一人歩きしてしまい、もはや話す人や聞く人によってその解釈が変わるという状況に至っている。Web 2.0の定義としては、Tim O'Reillyの論文が参照されることが多い。確かに、その論文は示唆に富んでおり、いまだに重要な意味を持つが、もはやそれにとらわれることはないし、また実際そこで定義されたこと以外も、Web 2.0と呼ばれるようになってきている。

Tim O'Reillyの論文の翻訳:
Web 2.0の特徴の1つとしてデータを持ち、それを公開することの重要性が説明されている。"Intel Inside"のアプローチに模して解説されることの多いその特徴だが、私は実際にはデータではなく、インターフェイスの公開こそが特徴だと考える。

データそのものは門外不出であり、そのデータにアクセスするインターフェイス=APIを公開する。そのインターフェイスを利用したマッシュアップが行われることにより、そのサービスが活性化する。これが新しいウェブが成功する秘訣であろう。

たとえ、データを持つ会社があったとしても、その会社がCDやDVDなどで別の会社に販売しているようであれば、その会社はあくまでもデータを販売している会社にすぎない。それがネットワーク越しにFTPで渡されるようであっても、XML RPCで渡せるようにしていたとしても同じだ。肝は自社で一般ユーザーに対して公開するサービスを行っていることであり、そのサービスの一部を利用したいというパートナーに対してのインターフェイスを公開することが、いわゆるWeb 2.0的なやり方だろう。

このようなやり方を「地主制度 2.0」と呼ぶのが、佐々木俊尚氏の本書だ。

次世代ウェブ グーグルの次のモデル
佐々木 俊尚
4334033857


本書ではWeb 2.0のビジネスは次の2つの進化の形態があると言う。
1. すでに提供されたプラットフォームの上で、プラットフォーム提供者とWIN-WINの関係を築きながら、Web 2.0的な仕組みを利用していくという進化を選ぶ。
2. プラットフォームとしての進化を選ぶ。
佐々木氏はこの2つの形態を説きながら、1の形態だと、結局最大の利益を得るのはプラットフォームを提供する側であるとし、これは一種の地主制度だと、あるブログからの引用を含めて語る。

本書では楽天はWeb 2.0に乗り遅れてしまっているとされる。本書でも指摘されているとおり、楽天はブログもカスタマーレビューもあるユーザー参加型のウェブとなっている。にもかかわらず、旧態依然としたサービスにしか見えない。インターフェイスの切り方の問題と参加している加盟店との関係(イコールパートナーとなりえているのか?)と本書では指摘する。加盟店側の問題は私には本当のところはわからないが、インターフェイスの切り方は確かにアマゾンやグーグルのそれに見劣りする。せっかくの大量のデータが活かされているように見えない。

地主制度 2.0は本書で取り上げられているものの1つに過ぎないが、それ以外にも次世代ウェブについてのいくつかのキーワード、たとえば「無料経済」や「アテンションエコノミー」など、とともに紹介されている。純粋に読み物として面白い。いつも思うのだが、佐々木氏はさすが元毎日新聞やアスキーで勤務していただけあり、実際の取材により集めた大量の情報を元に書かれるので、説得力がある。ウェブを検索しただけでお気軽にジャーナリスト気取りになってしまう(それだけでパブリックジャーナリストって呼んじゃう人もいるみたいだ)こともある中、この取材を元にした内容には非常に好感が持てる。これからも期待したい。

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する  文春新書 (501) ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか ウェブ2.0は夢か現実か?―テレビ・新聞を呑み込むネットの破壊力

関連投稿:
「ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか」のレビュー

2007年2月10日土曜日

行動経済学 経済は「感情」で動いている

いきなりだが、問題だ。
 問題1 今、あなたはテレビのクイズ番組に出演しているとする。
何題かの問題に正解し、最後の賞金獲得のチャンスがやって来た。
ドアが3つあり、どれでもいいからドアを開けるとその後ろにある賞品がもらえることになっている。1つのドアの後ろには車が置かれているが、残りの2つのドアの後ろにはヤギがいるだけだ。
あなたは、A、B、C3つのドアから検討をつけてAのドアを選んだとしよう。まだドアは開けていない。
すると、どのドアの後ろに車があるのか知っている司会者は、Cのドアを開けた。もちろん、そこにはヤギがいるだけだ。ここで司会者はあなたに尋ねた。
「ドアAでいいですか? ドアBに変えてもいいですよ。どうしますか?」
さあ、あなたならどうするだろうか。Aのままでもよいし、まだ開けられていないBのドアに変更してもよい。どちらを選ぶか?

 問題2 ある致命的な感染症にかかる確率は1万分の1である。あなたがこの感染症にかかっているかどうか検査を受けたところ結果は陽性であった。この検査の信頼性は99%である。実際にこの感染症にかかっている確率はどの程度であろうか?

 問題3 次のような4枚のカードがあり、表にはアルファベットが、裏には数字が書かれている。今、「母音が書いてあるカードの裏には偶数が書かれていなければならない」という規則が成立していることを確かめるためには、どのカードの反対側の面を確かめなければならないだろうか?

+---+ +---+ +---+ +---+
| E | | K | | 4 | | 7 |
+---+ +---+ +---+ +---+

 問題4 この問題は100人のグループに対して出題されているとする。今、各人に、1以上100以下の好きな整数を1つ選んでもらい、全員の数値の平均値の2/3倍に最も近い数を選んだ人が勝者であるというゲームをする。あなたは勝つために、どの数を選ぶだろうか?

 問題5 あなたは1000円渡され、見知らぬ誰かと分けるようにと言われた。自分の分として全額手元に置いてもいいし、一部を自分で取り、残りを相手に渡してもよい。ただし相手には拒否権があり、相手がその額を受託したらあなたの提案どおりに分配されるが、相手がそれを拒否したら2人とも一銭ももらえないとする。あなたなら相手にいくら渡すと提案するだろうか?

簡単に思えるかもしれないが、実際に正解を聞いてみると、意外に思うものが多いのではないかと思う。少なくとも、私はかなり間違えた(なお、正解は後半に載せる)。

このように人間は確立や論理に関する問題を感覚で解くが、それが合理的な正解(つまり、本当の意味での正解)とは異なることが多い。

しかし、純粋な経済学の世界では、すべての人間は極めて合理的に行動することになっている。そのような純粋経済学に対して、感情に左右される人間の行動を基にして経済の事象を説明しょうというのが行動経済学だ。

行動経済学 経済は「感情」で動いている
友野 典男
4334033547

本書はその行動経済学を解説したものであるが、冒頭に紹介したような論理クイズやいろいろな実証実験の結果を交えることで、学究的な色彩を薄めたわかりやすいものとなっている。ヒューリスティックとバイアス、フレーミング効果などの人間の判断に影響を与えるものを知ることで、ユーザー分析をする際の注意点がわかるし、また意図的にある方向に議論を他者の意見を誘導したいときなどにどのようにすればよいかもわかる。なかなかの良書。若干、専門的すぎる章もあるが、読み通すのはさほど苦にならない。

では、冒頭の問題の正解と解説。フォントを背景色と同じにしているので、マウスで選択して、色を反転させて読んで欲しい。フォントを背景色と同じにしているが、マウスを上に載せると回答が表示される。

 問題1
 正解は、選択を変えれば当たる確立は2/3に上がり、したがって「選択を変える」のが正しい。
<中略>
 まずAが当たる確立は1/3、BまたはCが当たる確立は2/3である。そして、Cははずれであることがわかったのだから、Bが当たる確立が2/3になり、選択を変えた方がよい。

 問題2
 信頼性が99%の検査で陽性と判定されたら、たいていの人はこの感染症にかかってしまった確率が99%と考えるであろう。ほとんど絶望的である。しかしこの直感も間違いなのである。
 もともと、この感染症にかかる確率は1万分の1であるから、100万人当たり100人の感染者がいる。検査の信頼性が99%であるということは、100人の感染者のうち99人が要請と判定されるわけである。
また、100万人当たり999900人は感染していないが、この検査を受けるとこの中の1パーセント人は誤って陽性と判定される。つまり99900人の非感染者のうち9999人は誤って陽性となってしまう。
 すると、陽性と判定された人は99+9999=10098人いるが、この中で「感染していて陽性の人」は99人だから、
    (感染していて陽性の人/陽性と判定された人)=99/10098≒0.0098
 したがって、実際に感染している人の確立は、ほぼ1%しかないのである。

 問題3
正解は、Eと7である。
 これもわかりづらい問題の一つで、典型的な誤答は、Eのみ、またはEと4を選ぶものである。政界は、Eは当然であるが、もう一枚、7の裏面も確かめなければならない。もしそこにたとえばAと書いてあったら、ルールに反するからである。4の裏面はどんなアルファベットでもいいのである。

 問題4
この問題では全員がランダムに選んだときの平均値は50である。そこで、その2/3を考えると33となるが、皆がそう判断できるとすると、勝つためにはその2/3すなわち22がまず候補となるが、ここでも全員が同じ推論をすれば、さらにその2/3に最も近い整数つまり15でなければ勝てない。しかし全員が同じならそれでも勝てないから、その2/3である10なら勝てるであろうか。この思考プロセスを続けていくと、7、5、3と続き、最終的には1でなければ勝者にはなれないことがわかる。

 問題5
この問題には確たる正解はないが、あなたが経済人()であり、相手も経済人であると予想するならば、自分が999円得て、相手には1円だけ渡すのが正解となる。相手も経済人であるから、0円より1円でももらう方がいい。したがって、あなたからの提案が1円以上であれば拒否しないはずである。あなたは、そのことを正確に予測しているから、自分の取り分がなるべく多くなるように999円手元に置くことになる。相手の取り分は1円である。
ほかにも問題が紹介されている。次の問題も面白かったので、ここで紹介しよう。
 隣家に新しく一家が引っ越してきた。子供が2人いることがわかっているのだが、男の子なのか女の子なのかはわからない。
(1)隣家の奥さんに「女の子はいますか」と聞いたところ、答えは、「はい」であった。もう1人も女の子である確立はいくつか?
(2)隣家の奥さんに「上の子は女の子ですか」と聞いたところ、答えは「はい」であった。もう1人も女の子である確立はいくらですか?
(3)隣家の奥さんが女の子を1人つれて歩いているのを見た。もう1人の子供も女の子である確立はいくらか?

正解は以下の通り。
 
(1)世の中に男女は半々いるのだから、1/2と答えそうになるが、正解は1/3である。子供の組み合わせは、女女、女男、男男の4通りがあり、女の子が1人いることがわかっているので、男男はない。したがって、この一家の子供の組み合わせは、女女、女男、男女の3通りのうちのどれかであり、もう1人も女の子であるのはこのうちの1通りであって、その確立は1/3である。
 (2)正解は1/2である。上が女の子の場合の子供の組み合わせは、女女、女男しかない。下も女の子であるのは1通り、つまり確立は1/2である。
 (3)正解は1/2である。<中略> これも(2)と同様に、目撃した1人は女の子とわかっているので、残りの1人は、女の子か男の子のどちらか。つまり確立は1/2である。
このようなゲームの解説と実際にはどのように解釈されることが多いかを知るだけでも本書の価値はある。すぐに忘れそうだから、手元に置いておきたくなる一冊だ。

2007年2月8日木曜日

Mike Sternと小曽根真

Mike Stern(マイクスターン)がブルーノート東京で小曽根真と競演する。3/26~3/31。Mike Sternを初めて聞いたのはMiles Davisのバックでの演奏だ。ちょうどMiles Davisがロックなどとの融合を始めて久しい時期だったのだが、Mike Sternの演奏もロック色が強いもので、非常に印象的だった。

そのMike Sternが小曽根真と競演。小曽根真は数年前、ブルーノート東京での演奏を聴いたが、そのときは小曽根真トリオとしての演奏で、いつものようにジャズの王道という感じのスタンダードなものだった。そうそう、例のドラえもんをジャズアレンジしたやつも演奏したっけ。その小曽根真がMike Sternのギターをどのように支えるのか。今から興味津々。というか、その前にチケット取らないと。

2007年2月7日水曜日

定年45歳。38歳は分岐点

テレビ東京のワールドビジネスサテライトで韓国企業急成長の秘密として、徹底した成果主義と熾烈な出世競争について紹介されていた。

タイトルに書いた「定年45歳。38歳は分岐点」というのは、実際に韓国で流行語になっている言葉だそうだ。番組ではサムスングループが例として取り上げられていたが、サムスングループでは、40歳で部長、45歳で役員になるのが一般的な出世コースで、このコースから外れた人はリストラの対象だとか。実際、2006年のサムスングループの役員の平均年齢は47.5歳で、40代の割合は68%。番組の中ではサムスンのエンジニアが「30代後半からエンジニアは激減する」と言っていた。

ここまでが前半。これだけ見ると、人間味のない厳しい企業のように見える。管理職に就きたくないエンジニアを認めないというような社風というのはどうなんだとも思う。

だが、後半を見て、その考えが一変された。後半ではサムスンを早期退職した人の中から優秀なベンチャー企業経営者が出ていることが紹介される。これが人材の流動化を促進する材料となっているようだ。

振り返って、日本を見てみると、大企業が優秀な技術者を抱え、そのくせ彼らにイノベーティブな仕事をさせるわけでもない。技術者もそのような温い環境を良しとし、外部に飛び出すことはない。人材の流動化と言われて久しいが、優秀な人は大企業を抜けようとしない。

このままでは韓国企業によるハイテク分野を始めとする成長市場での躍進をとめることはできないんじゃないか。

と、以上のようなことを思った。実は日本企業にいたことはないから、本当のところはどうなのか知らない。

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その後、「サムスンの決定はなぜ世界一速いのか」という書籍レビューを書いた。参考まで。

2007年2月1日木曜日

SNS的仕事術 ソーシャル・ネットワーキングで働き方を変える!

看板を背負わない生き方と看板を彩る生き方」にも書いたが、会社名でなく、個人で(も)通用する人間になりたいと常々思っていた。

実名ブログをしているのはそれが理由の1つでもある。実際、ブログのおかげで新しい人と知り合いになれたり(どっかの会合でなどで会ったときに、「ブログでコメントさせていただいていますXXXですが…」などと言われたりすることもある)、昔の知り合いがコンタクトしてきたりすることも多い。また、初めての人にコンタクトするときにも、ブログのURLをお知らせすることも増えてきた。ブログのエントリーを全部見るとは思えないが、いくつか興味あるところだけでも見てもらえれば、私の人となりはわかってもらえるかもしれない。実際、はてなでは、履歴書の代わりにブログを見ることがあるとか。

本書はそのタイトルから、mixiだとかのSNSを仕事で利用するハウツー本かと思われるかもしれない。私も始めはそう思い、特に手に取ることもなかった。ただ、何かの書評で、SNSの使い方を紹介したものではなく、SNSやブログといったソーシャルネットワーキングが一般化する中で、個人の情報発信力を高めるための新しいワークスタイルの提案をしているものだと書かれており、それに興味を惹かれて、購入してみた。

SNS的仕事術 ソーシャル・ネットワーキングで働き方を変える!
鶴野 充茂
4797336013


確かに、個人が自分の名前で人脈を作り、情報発信していくことを、その意義と手段の両方解説している。読んでみたが、悪くない。まったくこういったことに興味を持たなかった人にも、わかりやすく説明されていると思う。

私自身、会社勤めではあるが、常に会社という看板がなかった場合の自分というものを意識している。したがって、本書の内容には共感できる部分が多かった。一方、SNSやブログでの具体的なTIPSにあたる部分については、すでに知っている部分も多いし、リアルとネットの世界でのコミュニケーションの使い分けについてはほかの考えたもあるのではないかと思った。あくまでも1つの例として捉えると良いと思う。「一生モノの人脈力」などで書かれているように、実際に会うことや話すことが大事な部分もあると思うので、自分なりに工夫していけば良いのかと思う。

一方、このように「人脈」だとか「情報発信」だとかばかり言われると、逆に一切のコミュニケーションをたって、ひきこもってしまうことが逆に新しいトレンドになったりするのかもとも思う。正直、たまに自分もそのような誘惑に駆られる ;-)。もちろん、プチひきこもりだけど。

読みやすい本なので、数時間で読み終えることができるだろう。いくつかヒントになることもあった。興味ある人にはお勧め。値段に見合う内容かは微妙だが。

なお、もしかしたら、本書で書かれているいくつかのヒントに触発されて、私のブログに変化が現れるかもしれない。

参考