インターネットが人間生活に与える影響をシリコンバレー在住のコンサルタントである梅田氏とと作家の平野氏が話し合ったのであるが、この2人の考えの違いはそのような分野の違いだけでなく、世代の違いにもよる。梅田氏が1960年生まれなのに対して、平野氏は1975年生まれ。そうネット第3世代と言われる世代だ。学生時代にはもうインターネットがあった連中だから、インターネットとの距離感も違う。私は梅田氏よりは若いが、それでもインターネット上で普通にコミュニケーションできるようになったのは社会人になってからだ。もちろん、学生時代には携帯も無かった。
この対談の中にも出てくるが、もし自分が大学生のときに、パーソナルコミュニケーションツールである携帯電話が普及しており、SNSが一般的だったならば、学生時代はどのように変わっていただろうかと考える。
ウェブ人間論
梅田 望夫 平野 啓一郎
本書でもインターネット上の匿名性についての考察がなされている。平野氏はネット上でブログを行う人を次の5種類に分類しているが、これがなかなか面白い分類になっている。
一つは、梅田さんみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。どこかで私も書いた覚えがあると思うが、ネット上の人格というのも認めてかまわないと思う。人格というのは多面性があり、常に1つの仮面だけを持つものでない。ドメインが異なれば、異なったドメイン用の仮面をつけてかまわないと思う。それをリアルな世界の実名のままで行うのも自由だし、ネット上の別人格を作り上げて、その仮面をかぶって、活動するのも良いと思う。ただ、私が否定的なのは、人格をまったく持たずに、無責任に安易な「匿名」というものに流れてしまう傾向だ。「インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門」でも書いたように、インターネット上の慣習を作り上げるのに妨げになる。
二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できない自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かり合える人たち同士で割りと気安い交流が行われているもの。
この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際はあまり人に公開するという意識も強くないかもしれない。
四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますが、ネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気がつかないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
この五種類が、だいたいネット世界の言説の中にあると僕は考えるんです。一番目と二番目については、ネットに対して最も保守的な考えの人でも、多分、否定的には見ないでしょう。三番目は、やっぱり、自分を確認したいというのと、自分のはかなく過ぎ去っていく日々を留めおきたいという気持ちとがあるんだと思います。よく問題になるのは、四番目と五番目ですね。その時に、リアル社会のフラストレーションが、「自分の本音は本当こうなんだ」という四番目の方に向かうのか、五番目の空想的な人格の方に向かうのかは分かれるところだと思いますが。
あと、私の別ブログで「ネットを意識した名前付け」という投稿を以前したのだが、そこで書かれているのと同じことが本書には書かれていた。
逆に、商品名みたいな新しい言葉を思いついたときは、検索で引っかかってほしいと思う場合もありますよね。そのときは、空いているスペースを探すという方法があります。僕は自分の本のタイトルを、グーグルで空いているスペースから探してつけるんですよ。『ウェブ進化論』も空いてたんです。ただ、実は、この話の前には逆のケースが書かれている。
それから、工夫するんです。子供の名前を有名人と同じ名前にしておけば、隠れ蓑になって検索エンジンに引っかからないんじゃないか、とか。これからは、そういうことを考えていく時代になるんじゃないかと思うんです。これは考えさせる内容だ。自分は検索されにくようにというのは考えもしなかったが、どのようにネットの上で生きていくかによって異なる考えがあるのだろう。このような考えも、ネットがもっと社会に溶け込むようになるにしたがって、一般的な考えというのが定着するのかと思う。
<中略>
ある平野という姓のお父さんが「平野啓一郎と検索しても、作家の平野啓一郎が出てくるから、こいつは検索されずにかなり長いこと幸せに暮らしていけるであろう」と思って、子供に啓一郎という名前をつけるというのは有りだと思う。