2009年2月27日金曜日

Jeff Beck & Eric Clapton at さいたまスーパーアリーナ

先週の土曜日にJeff Beck & Eric Claptonの共演コンサートに行った。場所はさいたまスーパーアリーナ。



夢の共演とか言われていて、私もそれを楽しみにしていたのだが、正直言うと、それぞれの単独での演奏の後に、スタイルの違う二人がお茶を濁したようにブルースか何かを共演して終わりではないかという危惧もあった。

ある意味、予想は当たっていたのだが、「お茶を濁したように」ではなかった。

一言で言うと、Jeff Beckはすごい。あり得ない。年齢のことを言うのは野暮だとは思うが、60歳を過ぎているとは思えない。運指もスムーズに見える。もしかしたら、指の動きは悪くなっているのかもしれないが、それを補うほど魅力を増した表現力。

以前、誕生日について書いた投稿で、チャーの言葉を次のように紹介した。
敬愛するギターリストのチャー(竹中尚人)がFMの生番組でインタビューを受けていたのを偶然聞いたのだが、その中でインタビュアーに「若いミュージシャンと協演することも多いが、年齢によるハンディを感じることはないか」とい聞かれて、「いや、全然ないね。毎年毎年新しい発見があって、確実にうまくなるのが楽しくてしょうがない」と答えたのを聞いてからだ。
チャーがJeff Beckのことを敬愛しているのは周知の事実だ。この番組でも、この話の前に、イギリスのJeff Beckの自宅で彼とジャムった時のことを話していたので、偉大なる先輩であるJeff Beckのことを考えての発言だったのかもしれない。

いずれにしろ、年ごとにうまくなっていると言われても驚かないほどの演奏だった。一言で言うと、セクシー。ピックを使わずに指で弾いているのは知っていたが、繊細なサウンドは絶妙のフィンガーコントロールとボリュームコントロールによってなされているようだ。

多彩なハーモニクスにも驚かされたし、ボトルネックだけでの演奏も感動ものだった。

ベースのTal Wilkenfeldというのは不勉強ながら初めて聴いたのだが、この人もすごい。初め女性だと気付かなかった。WikipediaのTal Wilkenfeldの項目を見てみると、23歳ですか! 途中のベースソロでは、Jeff Beckが左手(会場から見ると、右手)に回って、低音のリフを弾き続け、彼女が高いフレットのほうでソロを弾くという余興も見せてくれた。

それにしても、Jeff Beckは本当におちゃめだ。衣装からして、60歳過ぎが着るものとは思えない。それって、若い奴が着てても引かれちゃうでしょうって言う感じだが、Jeff Beckならばなんでもありだ。時に派手なアクションもあり、彼から元気をもらった。

Eric Claptonのことを全然触れていないが、こっちは予想通り。がんばって、アンプラグドを抑えめにして、ストラトでのナンバーを後半に用意していたところとか、Jeff Beckと掛け合いソロをしてくれたりはしていたが、こちらは大体予想通り。

言い忘れたが、ライブは前半にJeff Beck、後半にEric Clapton。そしてEric ClaptonのアンコールにJeff Beckが再登場するというような構成。冒頭に述べた「それぞれの単独での演奏の後に、スタイルの違う二人が共演して終わり」というのは構成としては正しかった。

以下、have a nap: Eric Clapton 2009 with Jeff Beck 20090221からのセットリスト。
Jeff Beck Band:
 Jeff Beck - guitar
 Tal Wilkenfeld - bass
 Vinnie Colaiuta - drums
 David Sancious - keyboards

 Set List:

 01. The Pump (Jeff Beck)
 02. You Never Know (Jeff Beck)
 03. Cause We've Ended As Lovers (Jeff Beck)
 04. Stratus (Jeff Beck)
 05. Angel (Jeff Beck)
 06. Led Boots (Jeff Beck)
 07. Goodbye Pork Pie Hat - Brush WIth The Blues (Jeff Beck)
 08. Solo instrumental by Jeff Beck with Tal Wilkenfeld
 09. Blue Wind (Jeff Beck)
 10. A Day In The Life (Jeff Beck)
 11. Where Were You (Jeff Beck)
 12. Big Block (Jeff Beck)
 13. Peter Gunn Theme (Jeff Beck)

 Eric Clapton & His Band:
 Eric Clapton - guitar, vocals
 Doyle Bramhall II - guitar, backing vocals
 Willie Weeks - bass
 Abe Laboriel Jr - drums
 Chris Stainton - keyboards
 Michelle John - backing vocals
 Sharon White - backing vocals

 14. Driftin' (EC - solo acoustic)
 15. Layla - unplugged version (EC)
 16. Motherless Child (EC)
 17. Running On Faith (EC)
 18. Tell The Truth (EC)
 19. Little Queen Of Spades (EC)
 20. Before You Accuse Me (EC)
 21. Cocaine (EC)
 22. Crossroads (EC)
 23. You Need Love (EC and Jeff Beck)
 24. Listen Here - Compared To What (EC and Jeff Beck)
 25. Here But I'm Gone (EC and Jeff Beck)
 26. Outside Woman Blues (EC and Jeff Beck)
 27. Brown Bird (EC and Jeff Beck)
 28. Wee Wee Baby (EC and Jeff Beck)
 29. Want To Take You Higher (EC and Jeff Beck)

have a nap: Eric Clapton 2009 with Jeff Beck 20090221から引用
このブログにも書かれているが、「還暦過ぎの二人が、互いに楽しむように、そして相手を挑発し(笑)、けれど尊重し、ストラトの音を響かせる姿が、とっても印象的でした。観て、聴いて、本当に良かった!」。いや、本当に。

2009年2月16日月曜日

学ぶ力



通勤大学シリーズ。

いわゆる勉強法についての本だ。書かれていることは、ほとんど納得できる。

通勤電車では音声教材を聞くのは賛成できないとしているところだけは私は賛成できない。私は、通勤時にポッドキャストなどを聞くこともあり、時間と常に戦う立場としては、音声で情報をインプットできるのはありがたい。実際にこれで成果があがっている。英語教材を聞くこともあり、著者は「ボリュームが大きくないか、などと気になって集中できませんでした」と言っているが、ノイズキャンセル型のヘッドフォンであれば、あまり気にならないだろう。と、ここまで書いたところで、再度本書を読みなおしてみたが、CDやテープだと交換が面倒だとか書いている。2003年の書籍なので、このような感想になっていると思われる。iPodが普及した今ではどのように思っているか興味ある。

上では「書かれていることは、ほとんど納得できる」と書いたが、目新しさがない。多くは、ほかの書籍ですでに言われているものか、ごくごく常識的なもの。この種の本が始めての人には良いかもしれないが、そうではない人は物足りないだろう。

もっとも、これはこの書籍だけでなく、このシリーズはそのテーマが始めての人向けだから、私はターゲット読者ではなかったのだろう。

2009年2月15日日曜日

安岡正篤に学ぶ

この「通勤大学」というシリーズは前の会社にいたときからたまに読んでいた。難い内容をコンパクトにまとめているもので、本当は脳みそに汗かきながら読むべきとは思っているものでも、ついつい時間がないときやまずは概要を理解したいときに、このシリーズで解説されていると手に取ることが多かった。

今回の「安岡正篤に学ぶ (HOREI BOOKS)」は数々の経営者や政治家の師と仰がれる陽明学者、安岡正篤氏の教えを解説する。

正直言うと、書かれている陽明学や帝王学の解説はごくごく人間として当たり前のことであり、安岡正篤氏の名前を出すほどではない。ちょっと期待外れの一冊。安岡正篤氏の教えを学ぶにはきっとほかに良い本があるだろう。

ただ、古典の重要性を再認識はさせてくれた。いつか(いつだ?)それらもじっくり読んでみたい。

2009年2月12日木曜日

天使なんかじゃない & マリンブルーの風に抱かれて

携帯電話というアイテムとの付き合い方を図りあぐねている。

いわずもがな、携帯電話は必須アイテム。

財布を忘れてもどうにかなるが携帯を忘れたことに気づくと、遅刻する可能性があっても自宅に戻る。

言うまでもないだろうが、両者の違いは明白だ。気軽に借りれるものと、唯一無二のものかどうかの違いだ。

財布を忘れたときに現金を気軽に借りに行ける自分の偉大さを再認識するが、「気軽」かどうかは別として、現金というものは最悪借りればどうにかなるものに違いない。財布の中にはほかにも重要なものが入っているかもしれないが、でもたいていの場合、大したものではない。昔の(今もそう?)所ジョージがやっていた宝くじのCMではないが、たいていのことは金でかたがつく。自分の300人以上いるTwitterフォローワーの誰かは貸してくれるだろうから、会社で借金を踏み倒しまくっていても、まだあと300人くらいは踏み倒せる候補がいる。

さて、携帯の無い世界。

たまに、ブログや掲示板などで話題になるが、結構ステキかもしれない。ただ、1週間以上は耐えられないな。ネット依存症の自分としては。

その携帯の無い世界で多感な高校時代を過ごした若年層(正直に言うと、「若者」と書こうとして、それが死語かどうかわからなかったので、直前で止めた)の恋愛模様を描いたのがこの2作品だ。



じれったくなるようなすれ違いの多さ。現実世界では有り得ないと読者がわかっていながらも、自分と投影してしまう甘酸っぱい青春(死語? しつこいってか?)模様。だが、携帯という新しいコミュニケーションによって、このような恋愛プロセスは大きく変わった。

どちがが良いのかはわからない。ただ、よしもとばななや栗本薫の80年代の小説の中にあるような、リアルな世界だけを中心とした世界はもはや存在しない。小説やコミックに関しても、もはや携帯は必須アイテムだ。もしかしたら、多くの小説家は携帯電話というデバイスとの距離感を測りかねているのかも知れない。時流に流されることなく、ただ移りゆく時代の流れは理解しないといけない。

良かった、小説家じゃなくてw

でも、おぢさんは言いたい。庄司薫が言ったように、すべての家庭の黒電話はその家の親父さんの膝の上にいっつも乗っているんじゃないかと思うというくらいのプレッシャーの上で、覚悟を持って電話した男の子の気持ちをいつまでももっているおぢさん世代は強いんだ。常に直通で相手と繋がりあえると考えていることで、スポイルされないように気をつけなさいな。

で、何を言いたかたっかというと、このシリーズ×2読了。

2009年2月8日日曜日

エコロジーなんてクソ食らえ!

エコロジーなんてクソ食らえ。このご時世、言うのに勇気がいる。だが、あえて言ってみよう。

「地球を守る」なんて大嘘だ。人類がいなくたって地球は無くならない。「人類が住み続けるための地球」を考えているだけだ。言葉は正確に使おう。言っちまえば、日渡早紀氏の「ぼくの地球を守って」と同じ世界観なわけだ(ちょっと違うかも ;-))。

ハリウッド映画で定番の世界的規模の災害や対戦で人類が滅亡したか、社会文明が崩壊後の世界。あれを見て、美しいと思うことはないだろうか。猿の惑星で砂漠の中に自由の女神を見つけるシーンがあったが、アトランティスの遺跡を海底で見つけたような快感がある。人工構造物が自然に調和する。それは人類が滅びた後の地球しか持ち得ないエロティックな風景なのかもしれない。

あのキースアニアンも言っている。「人間の介在しない自然ほどバランスのとれたものはない」と(竹宮恵子氏の「地球へ」)。

別に刹那的な生き方を追求したいわけではない。でも、理解しておくべきことは、あくまでも環境保護は自分達のためであり、長いスパンであれば人類がどうなろうとも地球から見れば、今の状況は風邪をひいたくらいにもならないだろう。

なんとなく、自然のため、環境のためと言われてしまうと、それに反対するのは難しい。だが、そのような美辞麗句に満ちた環境保護のメッセージ(時には逆に脅されることもある。宗教か?!)に騙されずに、今を生きる我々にとって、もっとも心地よい自然との関わりを考えたほうが良い。マスターベーションにしかすぎない献身的な姿勢を追求することがすべてではない。

昨年買った「論座」の2008年7月号に「ぼくが『反・CO2排出削減派』の翻訳にこだわる理由」(山形浩生氏)という記事が載っている。「特集 なんでも『温暖化』のせいにしていませんか?」の中に収録されている。この号はメディアとジャーナリズムがテーマとなっており、この特集も今の温暖化対策とメディアリテラシという枠組みの中で組まれている。

この記事にはODAの経済分析を行うコンサルタントという本業の立場で筆者の山形氏が体験したエピソードが紹介されている。電力危機を迎えているインド洋の島国の石炭火力発電所建設に反対する環境団体の話だ。「石炭火力は二酸化炭素排出が多いから、地球温暖化を悪化させる」からというのが環境団体側の理由だ。
さて、あなたはどう思われるだろうか。地元の人にきけば、地球温暖化クソ食らえ、いまここにある電力危機をなんとかしてくれ、と言う。当然だろう。地球温暖化で本格的な影響が出てくるのは、今世紀も末になってからだ。それだって100パーセント確実ではない。その影響を避ける手段だっていろいろある。一方で、電力不足のためにいまここにいる人々が停電に苦しみ、雇用のないことに苦しみ、低い生活水準を強いられ――教育も保険もその他すべての点で満足なものを得られずにいるのに、環境団体は、それでもかまわないと言うんだろうか?

<中略>

この人たちは、「温暖化で途上国の人々が被害を受けることが懸念される」なんてことをしゃあしゃあと述べていた。それなのに、いまここにいる途上国の人々を助けようとは思っていない。人々が停電で苦しみ、低い生活水準を強いられることを、この環境団体たちはまったく意に介していない。それどころか「電力があることが本当に人々の幸せにつながるか考えなくてはならない」などとぬかす。大きなお世話だ。それを決めるのは、実際にここで暮らしている人だろう。かれらの口上を聞きながら、ぼくは毎回考えてしまうのだった。いったい、だれのための、何のための排出削減なんだっけ?
当事者が経済的合理性を考えた上で方向を決めれば良いものを、下手に真理を追求するかのように、自然を訴えられるから話がややこしくなる。経済的合理性、つまりはROI(Return On Investment)だ。リターンが見えないものに投資はしない。逆にいうと、リターンが見えれば、それは真理云々などの七面倒臭いことなどを取り出さなくても、黙っていても取り組まれる。

グリーンITが良い例だ。私はグリーンITは純粋にコスト削減のために行うべきだと思う。そのほうが今の経済状況の下、それこそサステイナブル(継続性を持って)に取り組めるものだ。グリーン化によって電力消費を大きく減らせる見込みがあるならば、自然にも良いことがきっとあるのだろうから取り組めば良い。だが、これだって、機器の入れ替えをしてまでして、削減できる電力コストがわずかならば、やらないというのだって構わないのだ。グリーン化というのが命題になってしまっていては、本末転倒だと思う。

グリーンニューディールも良いアイデアだと思う。上で述べたように、経済合理性のある形で行えれば良いが、この場合はそうでなくても良い。(私から見えれば)不幸なことに、グリーン化というのが一人歩きしてしまっている一種の全体主義のような状況だが、ならばそれを利用して経済の底上げを図れば良い。ニューディールの中身なんて、正直なんでも良く、景気回復と雇用確保が出来れば良いのだから、それこそ、穴掘っては埋めを100回くらい繰り返せば、土建屋は皆喜ぶのだろうけど、それだと前時代的な匂いが強すぎ、抵抗がある人も多いだろう。っていうか、おそらく可決されない。せっかく、「グリーン」が錦の御旗のあるキーワードになっているんだから、これを使って、ニューディールしちゃえば良い。

次世代の子どもたちのためというのも、心を惑わせるメッセージだ。「今を生きる自分たちのために」と言った場合、じゃあ、次世代の子どもたちはどうなる、一番被害を受けるのは彼らだということを聞かれるだろう。でも、それはその子たちに考えさせれば良いのではないか。自分たちは文明社会を享受しておきながら、次世代の子どもたちにはそれを抑制する方向で考える。山形氏が経験したインド洋の島国のエピソードと同じだ。

「あなたのためだから」。最近、CMで良くながれているあれではないが、子供に「あなたのためを考えて」とか親が言うのは99.999%は子供のためではない。自分のエゴのためだ。子供や地球に「あなたのためだから」と言い続けるエコロジー。Twitterでこの話をちょっとしたところ、「エコロジーはエゴロジー」という名言を残してくれた知人がいるが、まさにそのとおり。

猿の惑星 (ベストヒット・セレクション) [DVD]
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ぼくの地球を守って―愛蔵版 (1)
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地球へ… 1 (Gファンタジーコミックススーパー)
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論座 2008年 07月号 [雑誌]
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機械の代わりとしての人間

新卒で入った日本DECという外資系コンピュータ会社で、私は幸運なことにオーストラリアから助っ人で来ていた大変優秀なエンジニアと一緒に働く機会を得た。彼からはいろいろなことを学んだ。

ある時、私がコマンドで同じような作業を繰り返しているのを見て、彼は「機械にやらせることは機械にやらせろ。こういうのはすぐにスクリプト化できないかを考えないとダメだ」と教えてくれた。

人間を単純作業から解放するのが機械の役割である。

ロボットも同じだ。Wikipediaにも「人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは『人のような』装置のことである」と書かれているように、「人の代わり」に比較的単純な作業を行うのがロボットである。

だが、経済原則の元では、この機械と人間の役割さえ逆転することがある。

今夜8時から放映されていたNHKスペシャル「緊急報告 製造業派遣は何をもたらしたか」を見た。この中で、自動車部品メーカーの「人を雇用の調整弁」としている現場が紹介された。

このメーカーは4つの生産ラインを持っている。外側の2つが完全自動化されているラインであり、中の2つが半自動化のラインである。完全自動化されているラインは、人がほとんど介在せずに製品は完成する。一方、半自動化のラインでは、派遣労働者が極めて単純な作業を繰り返し、製品が完成する。普通は、残り2つのラインを自動化し、ラインすべてを完全自動化させることを目指すのではないかと考えると思うのだが、このメーカーでは明確な戦略の元、2ラインをあえて半自動化で残す。

残り2ライン用の機械を導入すると、設備の減価償却が必要となる。この費用よりも人件費のほうが安価だ。また、機械を導入し、4ラインすべてを全自動にしても、需要に応じて生産調整をするためには、いくつかのラインを止めることも必要になる。コストをかけて機械を整備するよりも、あえて単純労働であっても、その部分を機械化せずに、派遣労働者でまかなうことで調整を図る。これがこのメーカーの戦略だ。実際、この厳しい経済状況の元、このメーカーでは半自動化のラインを停止することを決めた。派遣労働者を徐々に解雇し、来月には派遣労働者との契約をすべて終わらせるらしい。

機械が人の単純作業を肩代わりすることで、人は人でしか行えない高度な作業に能力を使うことが出来る。これが産業革命以来の機械文明の論理だったはずだ。高価な機械よりも安価な人間。悲しすぎるが、これが今の経済状況下での現状か。

ところで、製造業派遣を決めた際に、国や企業は今の現状を予測できなかったのかという声が番組の中であがっていた。しかし、同じことは国民側にも言えるだろう。状況がわからないので、うかつなことを言うべきではないし、すべてを自己責任という形に帰着させたくも無い。だが、派遣労働者自身も機械で置換えが可能な単純労働をしていて、これが未来永劫続くと考えていたのならば、それこそ危機感が足りなかったと思う。私は昨年秋以降の状況を言っているのではない、その前のまだ需要と供給バランスが取れていたときのことだ。

製造業派遣での問題は、派遣労働者が企業に衣食住すべてを依存してしまっていることにも一因があると思う。企業側に責任を求める言い方にするならば、労働者を雇用の調整弁に使うのならば、いつでも関係を清算できるようなドライな関係を維持するべきだった。給与以外のものまで面倒を見ておいて、雇用を維持出来なくなったときに、簡単に解雇するようなことはすべきではない。人間関係でたとえるならば、割り切った関係のはずだったのに、依存されてきたら、やばいと普通思うだろうし、割り切り続けていたいなら、依存されるような関係になることはできるだけ避けるはずだ。企業も同じ感覚が望まれていたのではないか。ここでの企業は派遣会社+派遣先会社だ。この2つがどちらも責任を回避しているところも問題のように思うが。

派遣労働者側の話に戻ると、給与と寮を与えられて、しかもスキルを身につけられるような仕事とはほど遠い単純作業に従事していながら、まったく危機感を持たなかったならば、それはそれで何か欠けていたのではないかと思う。番組の中でも、「怠惰」という言葉を使って語っていた元派遣労働者がいたが、そういう側面もあるのではないだろうか。それとも、派遣労働者のすべてが、深夜残業や休日出勤、不規則なシフトなどの過酷な労働条件の元で働いていて、自己啓発/自己研鑽する時間がまったく取れなかったのか。

ここには派遣会社側の責任もあるだろう。状況が全然違うかもしれないが、IT業界向けの派遣会社は派遣労働者に対してトレーニングを行っているところも多い。マイクロソフトやオラクルなどの資格取得も奨励している。このようにすることで、派遣労働者がより多くの雇用機会を得て、さらには給与上昇も期待できるのだから当たり前のサービスなのだが、製造業派遣雇用では、派遣会社はそのようなことをしてきていたのか。問題は単純ではないが、すべてのプレイヤーが反省すべきところはあるように思う。

2009年2月3日火曜日

走ることについて語るときに僕の語ること

誰かのブログに書いてあったか、Twitterでささやかれたか、良く覚えていないが、とにかく、誰かに影響されて買った1冊。

昨年、「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」を読んでから、にわかに運動に目覚め、ジムに通おうかと考えているのだが、まだ実現していない。まだ通い始めてもいないのに、新庄みたいに、「筋肉がつきすぎて、ジーンズが着れなくなると嫌だなぁ」とか言っていたら、「能書きは良いから、早く通いなさい」と友人には呆れられた。

それでも、昨年初冬に本社に出張したときには、どんな夜遅くまで残業した後でも、アルコールを少し飲んだ後でも、ほぼ毎晩ホテルのジムで1時間ほど汗を流した。別にダイエットしたかったわけでもなく、なんとなく運動をするという行為を試してみたかったのだ。

汗をだらだらと垂らしながら、サイクリングマシンを漕ぎ、ランニングマシンでも「今日は何マイルほど走ろう」などと考えながら走ったのだが、自分でも信じられないほど気持ちよかった。人間の脳というのは適度な運動を欲しているというのを実感できた。

村上春樹氏のこの本はとにかく「走る」ことについて書いてある。氏も本書の中で書いているように、このような話をすることで他人に走ることを勧めてはいない。誰に話すでもなく、でも話し続けている、いつもの氏の小説に出てくる主人公のように。

ストイックなこと。脳が命じるままに快楽を得ようとすること。この2つは矛盾すると思っていた。芸術家というのは、後者をするための特権を得た人達であり、またそれ以外のことが出来ない一種不幸な才能を得た幸福な人だと思っていた。だが、どうやら違うようだ。

ストイックなまでにある習慣を持つことは、実は脳も望むものであり、その習慣付けを阻害するのもまた脳である。つまり、アブサンを飲んで酔いつぶれ、恐怖新聞のように、命を削りながら作品を生み出すのもまた脳の快楽に従った人間の行為であり、ストイックな生活を心地よく思い、その中からファンタジーを生み出すのもまた、脳の快楽を満たすものではないだろうか。

脳生理学の話など、まったく知らないので、これ以上、脳の話なんかするつもりは無いが、昨年からの勉強術や仕事術の本で、あまりにもストイックなまでに生活パターンを維持する人達の教えに拒否反応があったのだが、この本を読んで、少しその考えを改めた。実際、自分が昨年のマウンテンビューのホテルで経験した2週間は非常に快感だったのだから。

上に書いたように、村上春樹氏はこの本で人に走ることを勧めるつもりが無いのだが、それでもおそらく多くの人がこの本に影響を受けて走り出すことだろう。それほど、ストイックなまでの彼の姿から、何かステキなものを感じるから。

走ることについて語るときに僕の語ること
走ることについて語るときに僕の語ること

ちなみに、この本を読んで、久しぶりに村上春樹氏の昔の本を読みなおしたくなった。

思い出したのだが、彼とは何かと重なるところが多い。早稲田大学出身(私も同じ大学出身)、国分寺にて店を始める(私の今住んでいるところも同じ中央線の近所)、千葉(確か、前原か薬園台)にて作家をスタート(私も同じ新京成線沿線に住んでいた)、ヤクルトスワローズファン(私も同じ)。だからなんだと言われると困るけれど。

2009年2月2日月曜日

だからWinMXはやめられない

ブックオフで見つけた1冊。2003年7月発行の本だから、内容的にはもうかなり古い。

仕事柄、P2Pソフトウェアは前から興味を持って調べている。Windows自身に実装されているP2Pのインフラ技術(残念ながら、マイクロソフト純粋のツール/アプリケーション以外はあんまり使われていないのだが)を担当していた関係で、P2Pの基本技術はわかる。Winnyは自分でも動作させて、どうやったらWinnyによるウィルス感染被害にあわないで済むかを調べたこともある(私の持つもう1つのブログへの投稿「Winnyは使わないほうが良い。だけど、どうしても使いたいのなら…」を参照のこと)。

今では、以前ほどの興味は無いのだが、それでもたまにP2P関連のニュースを読むと、現状の確認をしてみたりはする。

そんな中でどうしてもわからなかったのが、P2P-この場合はファイル共有により違法に著作権のあるコンテンツを流通させるP2Pファイル共有を指す―に異常なまでにのめりこんでしまう動機だった。最近でも、SHAREを利用したことで個人情報などを流通させてしまったIPA職員がいたが、単に安上がりにコンテンツを取得したいだけならば、DVDやCDをレンタルで借りて、それをリッピングしたほうが安全だ。何故、法を犯してまで、人々はそんなにP2Pファイル共有にのめりこむのか。レアなコンテンツ好きな人間がそんなに多いのだろうか。

人によって違うだろうが、この本を読んで、1つの答えを得た気がする。ここで描かれているのは、P2Pファイル共有を通じたコミュニティの醸成だ。この体験記に出てくる主人公は必ずしも自分の趣味に合致するコンテンツを集めるのではなく、コンテンツを集めること自身が動機となっており、またそれを通じて同じような仲間と繋ぎ合えるのが魅力となっているのだ。これはWinMXというWinny登場前のP2Pファイル共有ソフトだったからこそかもしれない。WinMXはファイルをピアから取得する際に、IMなどで打診することが礼儀となっていたようだ。だからこそ、単にソフトウェア上で欲しいファイルを選択し、ダウンロードを指示するだけのWinnyとは違い、ソフトウェアを介してのバーチャルな空間での人と人との繋がりが出来ていたのだろう。

この特殊なバーチャル空間でのコミュニティにおいて、人からのレスペクトを得て、それを維持することが彼の動機だったようだ。彼は実際、WinMXを通じて、人にコンテンツを提供するために、自分でリッピングをして、動画をエンコーディングしている。動画エンコーディングのスキルを身につけるために、WinMXの知り合いの中で詳しい人にIMごしに教えを請うまでしている。その動画自身は彼自身の興味の対象ではない。ネットの向こうにいるWinMXコミュニティメンバーのために彼はエンコーディングをする。

Winnyにおいては、このような人間関係というのはもはや一部なのかもしれない。だが、匿名性におけるネット上のコミュニティは、一部メディアが報道するような殺伐としたものではなく、リアル世界におけるペルソナとは別のペルソナを持った、つまりリアルの自分とは別の人間として振る舞える世界の上での、もっと血の通ったもののようだ。これはWinMXが下火になった今のネットの上でも同じだろう。

ブックオフで100円で買った本だったが、知らなかった世界を覗くことができた。

だからWinMXはやめられない
だからWinMXはやめられない津田 大介

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2009年2月1日日曜日

吉田 美奈子&渡辺 香津美 Nowadays発売記念Live@Billboard Tokyo

ちょっと前になるが、吉田美奈子氏と渡辺香津美氏という至宝のデュオを聴いてきた。1月20日、場所はミッドタウンにあるビルボードライブ東京。

吉田美奈子氏は中学のころから聴いてはいたが、ファンになったのはここ15年ほど。彼女を知らない人に、ジャンルを説明するのは昔から難しかったが、今回のアルバム、NOWADAYSでさらに難しくなった。

このアルバムでは、これまた日本を代表するジャズギターリスト渡辺香津美氏と2人でビートルズ、デュークエリントン、ドアーズなどのクラッシックを歌い上げる。ジャンルで言えば、ジャズになるのだろうが、それぞれすでに独自の世界を作り上げている2人のため、ただのジャズのフレーバーをふりかけただけの演奏にはならない。ディストーションを効かせたギターに負けずと絡む吉田美奈子氏のボーカルは圧巻だ。

詳しくはNOWADAYSの特集サイトをご覧あれ。このサイトの作りも半端じゃない。収録曲の試聴が出来るし、楽曲解説はあるし、使っているギターの解説まである。作り手の思いがここまで込められているサイトというのも珍しいのではないだろうか。

今回のライブは、ベテランの2人だからこそ、肩に力の入らない、本当に楽しめるものだった。演奏の合間に入るトークも人柄を感じさせる。

曲はすべて素晴らしかったが、ジョニミッチェルのBoth Sides Now、ドアーズのLight My Fireなどが特に胸に沁みた。

実は、途中から、ずっとLibertyを演奏してくれないかなと思っていたのだが、アンコールでそれはやってきた。客の拍手に応える形で、2人はすたすたとステージに上がり、アンコール演奏を始めた。舞台後ろの幕が開き、夜景が広がるのと同時に、流れてきたのがLibertyだった。うかつにも涙が出そうになった。本当に名曲だ。

魂を抜けとられたようになったまま、店を後にしようと思ったとき、カジュアルエリアにハモンドオルガン奏者の河合代介氏がいるのを見つけた。以前、モーションブルー横浜で、これまた吉田美奈子氏とのデュオを見たことがあるので、間違いじゃないと思う。

今度は3人でやってくれたりしないだろうか。