2008年5月31日土曜日

「みんなの知識」をビジネスにする

今回のエントリは佐々木俊尚氏からいただいた書籍、「みんなの知識」をビジネスにする の感想。

3月にいただいていたのに、読むのが遅れてしまっていた。

申し訳ないです&いつもありがとうございます。 > 佐々木さん

さて、本書はオウケイウェイブの兼元氏との共著。二人の対談から始まって、二人が集合知を元にしたビジネスを行っている企業などのキーマンと対談した模様が収められている。

いただいた本にいきなり注文をつけるのは大変気が引けるのだが、この対談形式の部分がやや読みにくい。内容は大変興味深いものなのだが、人の口から出た言葉は必ずしもそのままで読者にわかりやすいものでは無いということの表れか。もっとも、読みにくかったとしても、肉声を伝えるも重要であり、その点からは本書は確かに登場する人の意気込みや苦労している/していた部分などが伝わってくる。読みやすさをとるか、あえて肉声を前面に出すか編集の悩ましい部分だろうか。

さて、「みんなの知識」、「集合知」(=Wisdom of Crowds)と呼ばれる概念はWeb 2.0と呼ばれる潮流と重なるように、多くのネット起業などで取り入られるようになった。情報や知識を提供する側とそれを受ける側/享受する側というのが対局する2極ではなく、ある人があるコンテキストでは前者になり、別のコンテキストでは後者になる。このようなことがごく当たり前に行われるようになっている。「集合知」を活かすこのような社会の実現にはインターネットが必須というわけではないが、インターネットによりこのような動きが活性化し、ビジネスに活かされるようになってきていることを考えると、まさに今、「集合知」ビジネスの黎明期なのかもしれない。

「集合知」の考え方は原典とも言える「みんなの意見は案外正しい」を読んでもらえるとわかるが、今はそれをビジネスにいかすクラウドソーシングに注目が集まっている。クラウドソーシングとはインターネットを使って不特定多数の集団の力を集めビジネスにする方法のことだ。

参照: クラウドソーシング 【crowdsourcing】- goo辞書

本書では、第1章に著者二人すなわち兼元氏と佐々木氏の対談が収録されている。ここで「集合知ビジネス」の現状と課題などが整理された後、二人がほかのキーマンと会談していくという構成となっている。その後の章では次のような人たちと会談している。

第2章: 山崎秀夫(NRI)
第3章: エニグモ
第4章: ニフティ
第5章: エレファントデザイン
第6章: アッシュコンセプト

山崎氏はナレッジマネージメントの専門家であり、ナレッジマネージメントと集合知の関係を話す。

実は、私の中ではナレッジマネージメントはもはや死んだものとなっている。暗黙知形式知に変え、それを組織で共有することにより、たとえば「職人」でしかなしえなかった業務をほかの人でも行えるようにするというのが、(かなり乱暴だが)ナレッジマネージメントの考えだ。そのために、グループウェアを活用して、形式知の充実に努めたり、社員に情報や知識を共有することを推奨することなどが行われた。多くのIT企業もナレッジマネージメントのためのツール(そういえば、デジタルダッシュボードというのもあった)を提供するなど、一時結構なブームになったものだ。

これが失敗した理由はいろいろな人が分析しているが、私は、暗黙知を形式知に変えるためのモチベーションが社員側に無かったのが原因ではないかと見る。経営者やナレッジマネージメントを推進する人たちの中には「アメと鞭」という言い方をしていた人もいたが、ナレッジマネージメントの実現にはある程度の強制が必要であったが、それと同時に貢献した社員に対しての「報酬」(必ずしも金銭的な報酬を意味しない)も必要であった。この「アメと鞭」が実現できなかった、もしくは機能しなかったというのがナレッジマネージメントが普及しなかった一因ではなかっただろうか。また、形式知として知識を表現し、共有することのコスト(労力)が思いのほか高かったということや保持している暗黙知の何が他者に有用なものかが判断できないなど、人間を重要なデータソースとする上でのシステム上の問題が多くあった。

本書の中で山崎氏は「遊び」の要素が欠けていたと指摘する。確かに「アメと鞭」の「アメ」の部分はあくまでも情報や知識を共有した際の貢献を正当に評価するという観点でのみ考えられていた部分があり、システムを使う上での楽しさというのは抜けていた。人間が新しい試みを行うに際しての重要な要素である「快感」が考えられていなかったように思う。

現在のナレッジマネージメントはもっと緩やかな仕組みによるものが多いようだ。社内でブログやSNSなどを立ち上げ、それにエンタープライズサーチなどを組み込むことで、定型フォーマットにおいてがちがちにシステムをくみ上げるのではなく、人間という入力システムからのフリーフォーマットでのデータをウェブ技術を使った上で集合知として扱っていく。

この山崎氏の話の中で衝撃的だったのが、社内SNSでも匿名を使うということ。山崎氏は日本の組織において重要な「報・連・相」(報告、相談、連絡のこと)のうちの「相」の部分でSNSは活躍するというが、官僚的な組織においては組織をまたがっての相談というのが許されない、もしくはマネージメントに支持されないことも多いという。そのため、カジュアルに組織をまたがって相談できるようにするには匿名であることが必要であるらしい。日本企業に勤めたことはないが、そんなにも上司や組織の論理というのは強いものなのか。正直、社内コミュニケーションで匿名を使ったことは無い(社内サーベイなどは別)ので、かなり驚いた。

そのほかの章もなかなか得るものが多い。第4章でニフティの方が話されていたが、ニフティはもしかしたら大変もったいないことをしたのかもしれない。ニフティが完全にインターネットに移行して、パソコン通信時代のニフティサーブのフォーラムなどを閉じた後に、mixiなどのSNSが普及した。少しタイミングがずれていたなら、ニフティが日本ではSNSの代表格になれていたかもしれない。私はニフティサーブの積極的なメンバーではなかったが、シスオペにより適切な運営がなされたフォーラムは大変心地よいものであった。あの秩序とインターネットでのオープネスが組み合わさった場合、どのようなコミュニティが出来ていたのだろうか。

また、この第4章の中では、ソーシャル化することの意味が問われている。インターネットの本質とも関係すると書かれているが、特にソーシャル化する場合は、それが「つながる」(サービス提供側から言うと「つなげる」)ことを目的としているのか、それとも「情報抽出」を目的としているかの2つの目的があるという。前者は言葉通り、人と人がつながっていること自身が目的であるのだが、後者はソーシャル化したシステムの中での集合知を抽出する、いわゆるアグリゲーションとしての機能を求めている。インターネット上のシステムを考える上で、ソーシャルという言葉が一人歩きすることも多いが、この部分を意識することは大事だ。もっとも、サービス提供者の意図に必ずしも沿わない形でユーザー自らが育て上げていくのがソーシャルサービスの特徴であり、その結果として逆のゴールを満たしてしまったり、もしくはまったく違う成果が得られたりすることも多いだろう。

第5章で取り上げられているエレファントデザインは空想生活を運営する会社。まさしく、みんなの意見を元に商品を企画し、生産してしまうというサイトだ。私はビジネスバッグが好きで、かなりの思い入れがある。PCを常に運ぶので、PC専用の収納部分は必要だし、荷物が多くなった場合にはショルダー型になって欲しいので、3-wayであることも必須だ。そんな私が、以前、バッグを購入したBAGWORKSというサイトでは、インターネット上で意見を集め、購入希望者の数によって生産の可否、また価格が決められていた。意見を言った人の中から希望者数人にモックを回覧し、そこから意見を吸い上げたり、ネットとリアルな世界を結びつける試みは大変面白いものであった。空想生活でも同じようなことが行われている。

このエレファントデザインと第6章で取り上げられているアッシュコンセプトの中では、「デザイナー」の役割の重要性が語られている。私からはデザイナーは本当にいわゆる製品のデザインをするだけのように思っていたが、形のある商品の場合、デザイナーというのはいわゆるプロデューサーのような役割のようだ。正直、名前は何でもかまわないが、商品の企画から生産までを責任持つ人の存在というのは今後ますます重要となってくるだろう。今の私の仕事である「プロダクトマネージャ」(プログラムマネージャと呼ぶ会社もある)も同じような役割だと改めて実感した。

いずれにしろ、無機質に見えるネットの世界も利用しているユーザーは結局生身の人間である。この人間を組み込んだシステムの中でどのような新しいビジネスを生み出すことができるかは当事者の1人として楽しみだ。

「みんなの知識」をビジネスにする
兼元 謙任 佐々木 俊尚

4798113913

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ビジネスマンのための「数字力」養成講座

理系を出ている癖に数字に弱い。こんな仕事していて数字が苦手というと他人は驚くし、自分でも恥ずかしいのだけれど、でも本当だ。

数字に弱いとは言っても、暗算は得意だし、自分に必要な数字は覚えている。最近でこそ携帯を見ないとわからなくなったが、ちょっと前までは良くかける電話番号はそらんじていえたものだ。

苦手だという数字は企業会計の数字だったり、円とドルとの換算を含んだり、KとかMに変換しなければいけなかったりするグローバルなコミュニケーションでの数字だ。外資に長年勤めていて、こんなんで大丈夫かと思うんだが、あまり大丈夫ではない。

なぜ、こういった数字が苦手なんだろうと改めて考えてみたのだが、おそらく、
  • 自分の生活からはかけ離れた大きな数字
  • 自分の興味がわかない数字
  • 切迫感のない数字
というものに対してはどうやら苦手意識が働くようだ。

誰でも自分の年収はわかるだろうし、大体の家計もわかる。それがわからないと死活問題だからだ。だが、大企業に勤めていたりすると、自分の会社の売り上げや利益などがわからないことも多いだろう。自分の生活に密接するものではないし、つぶれかねないような会社でない限り、毎期/毎年その数字を追う必要もない。

特に技術者ともなると、営業の数字などは自分からかけ離れた存在になってしまうことも多い。以前、自分でグループを率いていたときは、会社の売り上げや利益などを同業他社と比較したり、異業種で同じような売り上げ規模の会社をあげるなどして、グループで実感するようにしていた。こうすることで、多少なりとも数字が生きたものとなって自分たちのところに降りてきた気がしたものだ。

このビジネスマンのための「数字力」養成講座は、まさにいかに数字を見るかに焦点をあてた本だ。冒頭にも「90分で」と書かれているが、まさしく90分ほどで読み終わるように簡潔にまとめられているが実用度は高い。

本書では数字力を以下の3つに分類する。
  1. 把握力: 全体を把握する力
  2. 具体化力: 具体的に物事を考える力(発想力にもつながる)
  3. 目標達成力: 目標を達成する力
把握力では、1) まず関心を持つ 2) 数字の定義を知る 3) 数字と数字の関連付けができる 4) 基本的な個別の数字を把握している 5) 以上を踏まえて未知の数字の推論をする ことが必要なステップとしている。たとえば、営業利益と経常利益の違いを知る必要があるし、GDPと個人の年収との関連を知っていると数字のつながりが見えてくる。多くの数字は基本的な数字を元に推測ができるのだが、それでも10か20くらいは基本的な数字を知らないとその推論の元となるものも見つけられない。たとえば、日本の人口などはその基本の数字の1つだ。

推測/推論というところで述べているのはフェルミ推定と言われるような考え方であり、最近、「地頭力」という言葉でも説明されている能力だ。これは今度また説明したいが、要はこういうものを含めた数字に対する親しみを持つことにより、世界が広がることをこの本は述べている。

さらにはそれぞれ、もしくは具体化力や目標達成力についてのTipsも書かれている。ノウハウ本と言ってしまってはそのとおりなのだが、不必要な装飾もなく、好感できる。

90分で読めるのでお勧め。

ビジネスマンのための「数字力」養成講座
小宮 一慶

4887596219

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2008年5月30日金曜日

Taylor Eigsti Quartet @Yoshi's in San Francisco

仕事で2日前からサンフランシスコにいる。今回の滞在は短くて明日には帰国だ。

今日で一応、ミッションコンプリートだったので、夕飯を兼ねて、兼ねてから行きたかったJazz ClubのYoshi'sへ行ってきた。この店、サンフランシスコとオークランドにあるのだが、今回はもちろんサンフランシスコの方の店へ。



19時にホテルを出たのだが、まだ明るかったのと、20時開演だったので、歩いて行った。ただ、結構な距離があったし、途中、ちょっとばかり不穏な雰囲気の場所も通らなければ行けなかったので、もしこれを見て行こうと思う人はタクシーを使うことをお勧めする。私も帰りはタクシーを使った。



今日はTaylor Eigstiというピアニストのライブ。不勉強のため知らなかったのだが、グラミー賞にもノミネートされたこともあるらしい。一応、ホテルを出る前に少しはいろいろなサイトで視聴などはしてはみた。



店はだだ広くは無いものの、席の配置や広さなども悪くない。ライティングも凝ってはいないが、良い雰囲気を作り出している。

今回、Taylor Eigstiは
の3人を引き連れての演奏だったのだが、この3人が優れもの。半端じゃないうまさだった。

特に、Jullian Lage。彼のギターはなんなんだろう。クラシカルな繊細さがあるかと思えば、パーカッシブだったり。いやー、すごかった。

Taylor Eigstiもメロディアスでありながら、時にはファンクのように、時にはコケティッシュに、多彩な演奏をみせてくれる。聴くだけでなく、カルテットの各人の絡みを楽しめる。

それにしても、この2人、めちゃくちゃ若い。努力もしているんだろうけど、こういう人たちを見ると「才能」っていうものの存在は強く感じてしまう(何をいまさらと言われそうだけど)。2人ともYouTubeで演奏している姿が見れるので、興味ある人はどうぞ。

アーティストを選んでYoshi'sに行く日を決めたわけではなかったので、この2人に会えたのは本当に偶然なんだが、良い演奏を聴かせてもらった。なんて幸運なんだろう。

そういえば、次のCDは日本版だけ特別ボーナスがついていると言っていた。買ってみようかと考え中。



参照:
Taylor Eigsti (Wikipedia)
Julian Lage (MySpace)

2008年5月25日日曜日

東京十名山

日経新聞の日経マガジン5月号に「東京十名山」という特集が組まれていた。
東京の真ん中にも山がある。地名からは消えてしまったが、人々が今でも山と呼び、親しむ場所がある。そんな土地の面影を探してみた。

「東京十名山」(日経マガジン5月号)より
ここで取り上げられている十名山は以下のとおり。
  1. 愛宕山
  2. 飛鳥山
  3. おとめ山
  4. 道灌山
  5. 箱根山
  6. 池田山
  7. 西郷山
  8. 志村城山
  9. 島津山
  10. 御殿山
きちんと登ったことがあるのは箱根山くらい。ここは高校のクラブの基礎体力作りのランニングで駆け上った。また、その後に進学した大学も校舎が近かったから、たまにぼんやりしたいときなどは行っていた。測量実習もここで行った。

それ以外は近くは良く通っているところはあるものの、実際に登ったことがあるのはない。都内の散歩が結構好きなので、近くに行った際には寄ってみようかと思う。

どこにあるかを理解したかったのでマイマップを作った。興味ある人はごらんいただきたい。


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2008年5月24日土曜日

台北出張

書かなきゃいけないことがどんどんバックログのように溜まっていく。今回は備忘録を兼ねて、シンプルに。

この間の日曜日から火曜日にかけて台北(台湾)に行って来た。台湾は初めて。

行きの航空会社はANAを使う。ANAで海外に行くのももしかしたら初めてかもしれない。不慣れな土地だったので、空港にタクシーに向かえに来てもらった。空港の到着ロビーで名前を書いたボードを持って待ってもらえている人がいるが、今回、初めてあれを経験したということ。タクシーはちょっと高級だったみたいで、英語が堪能なドライバーだし、車種はメルセデスベンツ。とても快適。ちょっとだけ高かったみたいだが。

日曜日の午後に到着したのだが、すぐにホテルに向かい、しばし仕事。その後、故宮博物院に行く。ホテルのコンセルジェに聞いたら、タクシーのほうが早いというので、タクシーで。でも、着いたのが16時くらいなので、閉館まで1時間程度しかない。すばやく目玉展示だけを拝もうと入館しようとすると、なんと"International Museum Day"とかで入館料が無料ということが判明。



周りの施設もすべて無料。周辺に約2時間くらい滞在。



その後、ホテルにてマイクロソフトの元同僚(現地勤務)と待ち合わせて、ディナーへ。鼎泰豐(DinTaiFung)という有名な店らしい。確かにうまい。特に小籠包とチキンスープが逸品。

夕食後、ホテルにて月曜日の歌わせの準備を同僚とした後、就寝。

オフィスはTaipei 101にある。オフィスの中では現時点では一番最上階になる73階。なかなかの眺め。夜はアジアやほかの拠点から来ていた連中とディナー。店の名前は忘れたけど、これまたうまし。



火曜日早朝にはホテルを出発し、帰国の途に。帰りの便はEVA。これまた初めて。悪くない。

町もきれいだし、英語か日本語かは通じるし、料理もおいしいし、台湾はなかなか気に入った。今回は2泊3日(しかも最終日は6時にホテル出た)と短かったので、次回はゆっくりと滞在したい。

Taipei in May, 2008

2008年5月22日木曜日

カルトか宗教か

宗教やカルトに関する本が好きで良く読んでいる。カルトの危険性やどのようにしてカルトを見分けるかを訴える本も有用だが、この本は少し毛色が違う。

フランスの例をとり、カルトの分類や判別法などを書いている点は類書と同じなのだが、本書ではカルトに入る人の気持ちを理解し、そのために適切なタイミングで適切な対応をとるべきだと説く。

カルトからの救出についても、救いを求めていない人を救おうとするのは本人とっては精神的な危害を加えられているにすぎないと言う。そのような場合には本人はますます頑なになるし、そもそもカルトに入るきっかけになったものを理解しないといけない。時には、今の状況を受け入れ、将来にまた理解しあえるように、というぐらいに長い目で見る必要がある。

また、既存宗教の役割の重要性も本書では訴えている。既存宗教もその昔はカルトであったり、分派がカルト化したりということもあったため、カルトに対しては父親や母親のような寛容な対応をとれる。フランスなどでは既存宗教のフレームワーク内やそこを少し超えたところでカルトが発生することもあるので、既存宗教の長老などにより方向性が正されることもあるようだし、カルトからの救出でも援助しているようだ。

日本では既存宗教の役割が低下している。儀式宗教であったとしても、生活に密着した宗教というものが必要なのか。正直、まだわからない。ただ、本書にはそこまで書かれていなかったが、組織に属することの重要性の高い日本という社会(私はそれを揶揄して「村社会」と常に呼ぶ)では「村」に入れなかった人の救済機関としてのカルトの役割もあるのではないかと思う。そのような中でのカルトとの関り方というのは日本人として考えなければいけない。

本書や類書にも書かれているが、カルトはもはや宗教の枠組みを超えて、自己啓発や健康などいろいろな団体として社会に存在しているのだから。

カルトか宗教か (文春新書 (073))
竹下 節子

4166600737

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2008年5月20日火曜日

Keith Jarrett Solo 2008 @BUNKAMURA Orchard Hole

この間の土曜日にKeith Jarrett(キースジャレット)のソロコンサートに行った。彼のコンサートは彼が来日するたびにほぼ毎回行っている。今回の会場は渋谷のBUNKAMURAオーチャードホール。このホールは初体験。

2階席のほぼ真ん中の席で、音も悪くない。私は指使いまで見るほどピアニストの技巧に詳しくないが、それでも彼のしぐさまで良く見えるのはうれしい。

いつものようにコンサートは途中の休憩(インターミッション)をはさんでの2部構成。1部は不協和音や心を掻き毟るような激しいリズムでのプレイが中心。一緒に行っていた友人にも話したのだが、マインドクラックという言葉が頭に浮かんだ。村上春樹氏の小説か何かにあったように、自分の心を一度切り刻まれ、そこから再構成されていくようだ。

その意味では休憩を挟んだ2部が心に透き通るようなメローな楽曲だったのも絶妙な構成だ。いつも彼のコンサートを聞くたびに、どこまでが本当に彼の心にわきあがる音をそのまま吐き出していて、どこからが緻密な設計に基づくものなのかがわからないのだが、この構成には正直やられた。2部の最初の楽曲を聴きながら、自分の葬式にはこの曲をかけてもらいたいと思ったほどだ。人生が走馬灯のように思い起こされるというのは使い古された言い回しだが、本当にそのような感覚に襲われたのだ。

その後の楽曲は順番をきちんと覚えていないのだが、1部と同じようなマインドクラック系、メローなもの、ブルージーなものなどバラエティに富んだものとなっている。これもいつもの彼のコンサートとほぼ同じだろう。

彼はアンコールをいつも多目にやってくれるのだが、今回も5回もアンコールに応えてくれた。ただ、今回は観客の中にマナーが悪い人が少し多いように見えたのが残念だ。何回目かのアンコールでのプレイを終えた彼が舞台の袖に下がるときに、会場側から見て左側の観客を指差し、何か言おうとしていたので、何かあったのかと心配していたが、その後にアンコールに応えて舞台に戻ってきてくれたときの彼の説明で、誰かが写真を撮っていたことがわかった。

数年前の彼の池袋の東京芸術劇場大ホールでのソロコンサートのときには、入場時に一枚のペラ紙が配られた。そこには前日のコンサートでマナーの悪い(おそらく演奏途中で話していたか何か)人がいて、そのために演奏が中断され、しばらく彼が舞台に戻ってこなかったことが書かれていた。今日はそのようなことにならないように注意して欲しいと。その日の観客の緊張度は並でなく(途中で演奏が中断されてしまってはたまらないため)、返って彼のほうが気を使っているように見えるほどだった。

そのようなことが以前あったことを私は知っているので、写真まで撮られていたのにも関らず、何度もアンコールに応えてくれたのは大変ありがたかった。機嫌が良かったのか、それともほかの観客の熱意にうたれたのか。もしかしてら、さすがに年齢から丸くなってきているのかもしれない。私は逆に、彼のコンサートに行くたびに、これが最後かも(私が最後かもしれないし、彼が最後かもしれない)と思うほど、毎回が真剣勝負なので、少しでもマナーが悪い人がいると許せない。微妙な音を1つも聞き逃したくないような、メローな楽曲がアンコールでは多かったのだが、咳払いしている人がかなり気になった。生理現象なので仕方ないのだが、ちょっと多すぎなかったか。咳き込む可能性があるならば、喉スプレーぐらい持ってくるとか、マスクをするとか、万全の準備をしてきて欲しい。あと、私の2列くらい前の左斜め席に座っていた女性(2階席の前から3列目くらいで、舞台に向かって、やや左側)が演奏中にビニール袋から何かを取り出しているのも許せなかった。何を考えているのか。

というような怒りはともかくとして、全体としては大変すばらしいコンサートだった。

アンコールの話に戻るが、最初か数曲目のメローな楽曲では、何故か男女の愛の営みを思い起こされたし、ブルージー/ジャージーな楽曲は昔の彼のアルバム "Somewhere Before"を思い出した。バラエティに富む楽曲を堪能でき、大変満足の一日。

話がランダムになってしまって申し訳ないが、1部/2部の全体の流れについて一緒に行った友人とも話した(アンコールについてはおそらく小品になるように意識して演奏していると思うのでここでは除外する)。この日は日本もしくは世界の状況を彼は思い描いていたのではないかと思う。アーティストがどのようなことを思い描きプレイしているかというのは推測したらきりがなく、それよりも受け手である我々がどのようにそれを感じ取ったかが大事だとは思うのだが、混沌とした現在の状況とその中での愛おしい人々の生。友人も私も彼からはそのようなメッセージを受け取った。

次回の来日時のコンサートもまた行こう。いつかわからないが。

Somewhere Before
Somewhere Before

2008年5月17日土曜日

北九州空港とスターフライヤー

ゴールデンウィーク中に北九州に行ってきた。



羽田から空路で北九州空港へ。北九州空港は以前は内陸にあったが、今は人工島の上の海上空港となっている。旧北九州空港から移転したのが約2年前。移転直後にも来たことがあったが、今回の利用は久しぶり。

出来て間もないということもあるのだが、施設がとても美しい。自然光がフロアに入り込むように設計されているし、利用客数に比べてゆとりのあるフロアスペース。それだけが理由ではないのだが、羽田から無事空港に到着後、2時間近くも空港にいてしまった。

気に入ったのが足湯。





大人が100円で時間制限無し。タオルは別料金で100円。足を入れた瞬間はちょっと熱いかと思ったが、すぐに慣れ、外の景色を眺めたり、持参していた本を読んだりして、1時間近くも過ごしてしまった。足湯に足をつけている間に何名も来たが、こんなに長くいたのは私くらい。実は足湯は初体験だったのだが、体も温まったし、気分もリフレッシュできた。



ただのお湯かと思っていたのだが、きちんとした効用のある温泉だった。



ただし、地下から沸出する温泉ではなく、天然鉱石を用いたもの。



あと、1Fにはメーテルもいる。ロボットとしての出来としてはどうかと思うが。



空港からはバスでJR日豊線へ。人口島なので、いわば海側から九州を見るような形になる。また、橋も人工的な美しさがあり、実はこの空港バスからの眺めは悪くない。途中にある日産やトヨタの工場も、特に何かあるわけではないのだが、ついいつも見てしまう。





あと、今回、初めてスターフライヤーを利用したのだが、この機体は美しい。黒を基調とした外装と内装。もともと自分が黒が好きなのもあるが、非常に落ち着くことができた。ほかの航空会社も黒の内装にすれば良いのではないかと思うほど。





北九州空港とスターフライヤー。これからも使いそうな予感が大きい。

九州2008年春



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2008年5月6日火曜日

メディア・リテラシー -世界の現場から

リテラシーという言葉はもともと読み書き能力のことを示す。識字率の説明で用いられることも多いようだ。つまりは、読み書きそろばんというような基本的に文字や数字などを扱うための基本的な素養・能力のことを言う。

これより

ITリテラシー=ITを活用する能力
情報リテラシー=情報を活用する能力
コンピュータリテラシー=コンピュータを使いこなす能力

などの言葉が最近では良く使われている。

これらと同じような言葉に「メディアリテラシー」という言葉がある。これもざっくりと定義するならば、「メディアを活用する能力」ということになる。メディアとは何かと考え出すときりがないが、ここでは情報を発信する媒体と考えよう。つまり、コミュニケーションメディアとしての新聞、雑誌、テレビ、そしてインターネットなど。

この本、「メディア・リテラシー―世界の現場から」は2000年に1刷なので、ちょっと前の本であるが、メディアリテラシーの重要性と教育における取り組みを知るには今でも十分だ。情報洪水状態にある現代において、その発信者であるメディアからの情報を「批判的」に読み解くことは重要だ。本書でも冒頭に書かれているが、ここで言う「批判的」というのは「(否定的に)批判する態度」ではなく、「適切な基準や根拠に基づく、論理的で偏りのない思考」だ。

メディアリテラシーでは先進国といわれる英国、米国からの情報流入が激しいカナダ、そして教育だけでなく市民からの情報発信も進む米国の例が紹介される。メディアを読み解くことが今日では古典作品を理解するのと同じかもしくはそれよりも重要であるという認識のもとに授業に積極的に取り入れられている様子がわかる。また、情報の発信者であるメディアの意図を理解するには、自らが情報発信者になる、すなわち作品を作ってみることが重要であると、どの国も考えており、予算が割り当てられ、映像作品まで授業で作っているとは正直驚きであった。もっとも、予算確保にはそれぞれ苦労しているようであるし、また理解の無い政権になったり、教師により取り組みの温度差があるなど、まだまだ課題が多いことも紹介はされている。

私は日本でのメディアリテラシー(ここでは教育の意味で言っている)の現状がどうなっているか興味がある。というのも、どうもネット上での議論などを見ていると、報道をそのまま鵜呑みにしているような例も多く見受けられるし、また逆にネット上での議論だけですべて判断し、そこで参照されている元の情報さえ確認していないような逆に極端に振れている例も見られる。本書で書かれている当時はまだネット上での議論というのが一般的ではなかったが、今では2ちゃんねるもひとつの貴重な情報源であるし、ほかのソーシャルブックマークなどで世論(かなり狭いが)が形成されていくこともある。ネット上での議論というのはサイバーカスケードと呼ばれるように極端に偏る危険性もある。このようなことも含めてネット上の情報を咀嚼する能力が今は求められているだろう。

Amazonで見てみると、ほかにもメディアリテラシーの本はいくつもあるようなので、ちょっと読んでみようかと思う。

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)
菅谷 明子

4004306809

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家出のすすめ

家出という言葉を以前より聞かなくなった。警察庁の資料を見てみると、ここ40年ちょっとの推移は次のようになっている。

昭和38年: 84,198人(人口: 96,156K人)
昭和47年: 90,460人(人口: 107,595K人)
平成18年: 89,688人(人口: 127,782,971人)

昭和47年からは絶対数でも減少しているし、昭和38年からも人口との比率で見ると減少している。もちろん、家出人の統計上の数というのは警察に届出が出されているかどうかの数なので、実際の家出人はこれよりも多い可能性はあるが、それでも劇的に増えているということはない。

家出のすすめ」は寺山修司氏による昭和47年の作品だ。実際には、昭和38年に「現代の青春論―家族たち・けだものたち」という題名で出版されていた。昭和47年の文庫化にあたって、寺山氏の元の題名がやっと採用されたらしい。昭和38年当時は家出が社会問題となっており、それをセンセーショナルに煽るようなタイトルであることに出版社が自粛したと文庫本のあとがきに書かれている。

私の学生時代にも家出をした友人はいたが、もはやあまりカッコイイ行動ではなくなっていた。せいぜい数日の無断外泊。都心の学校に通っていたこともあるかもしれないが、遠くに行く必要はなく、友人宅に泊まったりする程度だった。地方出身者と話したことはないが、もしかしたら、私が学生だった当時、地方の中高生は東京や大阪などに家出することは多かったのだろうか。

寺山氏は本書で家出をすすめる。それは家族を一度解体し、そこから新たな家族のあり方を見つめ、人間として独り立ちすることを意味する。地方出身者が都会に出るという当時の典型的な家出のパターン。都会の魅力が薄れ、家族はすでに解体された今、寺山氏の言葉はむなしいかもしれない。だが、現状維持に常に疑問を持ち、すべてにタブーを持たない彼の生き方は今でもまぶしい。

ところで、同じ寺山氏の「書を捨てよ、町へ出よう」やブコウスキーの「死をポケットに入れて」を読んで、競馬に行ってみたくなった。今年中に競馬デビューするかも。

家出のすすめ (角川文庫)
寺山 修司

4041315239

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<参考資料>
平成18年中における家出の概要資料

2008年5月2日金曜日

I'm Not There

Amazonで書籍を購入したら、中に小さいリーフレットが入っていた。「I'm Not There」と書かれていて、リチャードギアなど6人ほどの俳優の顔写真が出ている。何かと思ったら、ボブディランの伝記的な映画、「I'm Not There」の宣伝だった。ロック系の映画は好きで今までも何回か見ている。昨年末にはジョンレノンの映画2つを数日間で観たほど。

4/26(土)からすでに上映されているようだった。東京では有楽町、立川、そして渋谷で上映されている。こういうときに、渋谷勤務というのは便利だ。しかも、渋谷は19:55の回が最終上映。これなら仕事が終わってからでも行ける。ゴールデンウィークのため比較的時間が自由になるので、本当はすぐにでも行きたかったのだが、どうせなら映画の日(毎月1日は映画の日だ)と考え、昨日観に行ってきた。

ネタバレになることは書かないようにするが、文字通りの「伝記的映画」というのを期待すると肩透かしをくらうだろう。いわゆるドキュメンタリー的に人を追うという映画も面白いのだが、このようなもう少し本質的な形でアーティストを浮かび上がらせるのも面白い。

6人の役者の中では、ケイトブランシェットが秀逸。一番派手な時代を演じているというのもあるかもしれないが、中性的かつ破天荒なイメージが彼女にぴったし。また、マーカスカールフランクリンの歌と演奏は荒削りだったろうボブディランの若きころにこれまたはまっている。

時代とともに変わるボブディラン。だけど変わらない。

ジョンレノンもブライアンジョーンズもジョーストラマーもいないが、ボブディランがまだいることにわれわれは感謝すべきなのかもしれない。

2008年5月1日木曜日

死をポケットに入れて

最近、個人で活動するときの肩書きを考えている。「ブロガー」っていうほどブログに力を入れているわけではないし、最近は本を書いているわけでもそんなに雑誌に寄稿しているわけでもないので、「ライター」とか「ジャーナリスト」とはとても言えない。そんなときに寺山修司氏の作品を読んでいて、「詩人」というのはどうだろうと思った。詩などここ数十年書いたこと無いにもかかわらず。

チャールズブコウスキー
の「死をポケットに入れて」にはそんな「自称詩人」の話が出てくる。ブコウスキーは彼らに対する憤慨を隠さない。たいした作品も発表せず、親にいつまでもパラサイトしていたり、裕福に暮らせる資産がありながら庶民感覚を持っているようなふりをしていたり、才能が無いことを才能を理解できない回りの所為にしたりする彼ら。

本書はブコウスキーが晩年にマッキントッシュ(そういえば、最近マッキントッシュってフルで呼ぶことが少ないのは何故だろう)で書いた日記を集めた作品だ。本人の死後に発表されている。つまり、本来は世に出ることを考えていなかったと思われるものなのだが、それでも人の心に訴えるものがある。と言っても、前向きなメッセージがあるわけでもなく、若い人へのアドバイスがあるわけでもない。ただ単に、日々の暮らしとそこから派生する数々のエピソードや思いが綴られる。時にはまったく脈絡がない話に飛ぶこともある。

彼の話は一環して厭世的だ。晩年を向かえ、常に死を意識していたためだけではないだろう。おそらくこういう性格なのだ。

私も厭世的と言われることがある。大学のときハワイに家族で行ったのだが、皆が海岸で日光浴をしているときに、私は一人、日本から持っていった文庫本を読みふけっていた。何の本だったか忘れたが、常夏の日の下で読むものではなかっただろう。どこか回りと溶け込めない自分を見つけることがある。周りが熱くなるほど覚めていく。みんながみんな楽観的で前向きで上昇志向が強いことを由とされる世の中はまっぴらごめんだ。

彼の文章に心揺さぶられるのはそのためか。

ところで、マッキントッシュがこの作品では重要な位置を占める。愛用していたタイプライターから乗り換えたマッキントッシュ。調子の悪くなることや、古くからの知人からはマッキントッシュを使っていることを揶揄されたりするが、それでも彼はマッキントッシュを愛している。

私もこの気持ちはわかる。文章を書くのは好きだが、PCが無かったら、本を出版しようとも思わなかったし、雑誌に寄稿しようとも思わなかったし、人に手紙(メール)を送ろうとも思わない。日記(ブログ)だって始めなかったろう(というか、PC前には何度日記を書き始めたことだろう)。それほどPCで文字を操ることは楽しい。私の場合は、単に漢字を知らないだけかもしれないのだが。

死をポケットに入れて (河出文庫)
チャールズ・ブコウスキー

死をポケットに入れて (河出文庫)
詩人と女たち (河出文庫) ありきたりの狂気の物語 (新潮文庫) 町でいちばんの美女 (新潮文庫) 勝手に生きろ! (河出文庫 フ 3-5) くそったれ!少年時代 (河出文庫)
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未来を変える80人 僕らが出会った社会起業家

未来を変える80人 僕らが出会った社会起業家
未来を変える80人 僕らが出会った社会起業家

マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった」を読んでから、社会起業家(ソーシャルアントレプレナー)と呼ばれる生き方に興味がある。

いつか自分もそのような生き方をしてみたいと思い、参考になる本をということで、この本に行き当たった。Amazonでのカスタマーレビューも悪くない。

だが、読み始めて、がっかりした。

世界を回って80人(書籍の中で一節で取り上げられている人だけで80人)もの社会起業家に会った行動力は認めるものの、いかんせん一つ一つの内容があまりにも薄すぎる。どんなことをやっているかとその経緯とそれがいかに社会に貢献するものかが述べられているのだが、深く掘り下げられていないので、さらさらと読めてしまう。何も残らないまま。

社会起業家ということで仕方ないのかもしれないが、同じような分野(圧倒的にエコが多かった)の話が多いのもちょっと飽きる。一人一人の話をコンパクトにまとめるという形をとっているのだが、こんなことだったら、同じような社会テーマで活動をしている人はもっと大胆にグルーピング化したほうが良かったのではないか。

途中まで読んで、読むのを止めた。私には残された時間は多くないから。