最近、個人で活動するときの肩書きを考えている。「ブロガー」っていうほどブログに力を入れているわけではないし、最近は本を書いているわけでもそんなに雑誌に寄稿しているわけでもないので、「ライター」とか「ジャーナリスト」とはとても言えない。そんなときに寺山修司氏の作品を読んでいて、「詩人」というのはどうだろうと思った。詩などここ数十年書いたこと無いにもかかわらず。
チャールズブコウスキーの「死をポケットに入れて」にはそんな「自称詩人」の話が出てくる。ブコウスキーは彼らに対する憤慨を隠さない。たいした作品も発表せず、親にいつまでもパラサイトしていたり、裕福に暮らせる資産がありながら庶民感覚を持っているようなふりをしていたり、才能が無いことを才能を理解できない回りの所為にしたりする彼ら。
本書はブコウスキーが晩年にマッキントッシュ(そういえば、最近マッキントッシュってフルで呼ぶことが少ないのは何故だろう)で書いた日記を集めた作品だ。本人の死後に発表されている。つまり、本来は世に出ることを考えていなかったと思われるものなのだが、それでも人の心に訴えるものがある。と言っても、前向きなメッセージがあるわけでもなく、若い人へのアドバイスがあるわけでもない。ただ単に、日々の暮らしとそこから派生する数々のエピソードや思いが綴られる。時にはまったく脈絡がない話に飛ぶこともある。
彼の話は一環して厭世的だ。晩年を向かえ、常に死を意識していたためだけではないだろう。おそらくこういう性格なのだ。
私も厭世的と言われることがある。大学のときハワイに家族で行ったのだが、皆が海岸で日光浴をしているときに、私は一人、日本から持っていった文庫本を読みふけっていた。何の本だったか忘れたが、常夏の日の下で読むものではなかっただろう。どこか回りと溶け込めない自分を見つけることがある。周りが熱くなるほど覚めていく。みんながみんな楽観的で前向きで上昇志向が強いことを由とされる世の中はまっぴらごめんだ。
彼の文章に心揺さぶられるのはそのためか。
ところで、マッキントッシュがこの作品では重要な位置を占める。愛用していたタイプライターから乗り換えたマッキントッシュ。調子の悪くなることや、古くからの知人からはマッキントッシュを使っていることを揶揄されたりするが、それでも彼はマッキントッシュを愛している。
私もこの気持ちはわかる。文章を書くのは好きだが、PCが無かったら、本を出版しようとも思わなかったし、雑誌に寄稿しようとも思わなかったし、人に手紙(メール)を送ろうとも思わない。日記(ブログ)だって始めなかったろう(というか、PC前には何度日記を書き始めたことだろう)。それほどPCで文字を操ることは楽しい。私の場合は、単に漢字を知らないだけかもしれないのだが。
死をポケットに入れて (河出文庫)
チャールズ・ブコウスキー
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