2022年4月27日水曜日

花は咲く わたしは何を残しただろう

(2013年4月末のFacebookの投稿より転記)

母が認知症であることが発覚してからしばらくがたつ。幸いなことに薬で進行が抑えられているのか、日常生活はどうにかこなせている。


数年前(発症前だ)に家族の反対を押し切って、勝手に南房総の自立生活型ホームに入居してしまったのだが、施設のサポートがしっかりしていて、近くに有名な亀田病院もあるので、遠方にいてもそんなには心配な状況ではない。ただ、本人も寂しがるし、病気のことも考えて、1ヶ月に1度は顔を見に行くようにしている。

今回は2ヶ月ぶりくらいになってしまったのだが、ゴールデンウィークということもあり、姉の家に2日ほど泊まってもらっていた。

今日は家(南房総)に送る日。

朝、娘が話しかけてきた。

「リー(娘の名前。自分のことをこう呼ぶ)、明日休みだし、今日予定していた生徒会の集まりが無くなったみたいだから、一緒に行ってもいいよ」

「本当? それは助かる」

「うん。じゃあ、おばあちゃんが退屈しないように、話を考えておかなきゃ」

娘は母が同じことをずっと質問したりするのを知っているので、車内で母が心配しないで過ごせるように話をいくつか用意しておいてくれた。

思えば、親子ということもあるのか、私は母が同じことを繰り返し話してしまうのが仕方ないことと頭では理解していても、ついつい冷たく接してしまう。来るときの車の中でも、私は「ああ」とか「うん」とか一言しか返事しないことが多かった。


不思議な行動をすることが多くなってしまった母。

今日もどこかで摘んだという花を大事に持ってきていた。お世辞にも綺麗とはいえない、どこでもらったのかわからないラップに、どこにでも咲いていそうな花を大事に包んでいた。

「ほら、綺麗でしょう。お家に飾ろうと思って」

なんと返事して良いかわからないまま運転を続ける私を横に娘が話した。

「そうそう、おばあちゃん、お花好きだよね。調布に住んでいたときも、多摩川まで行って、たくさんお花摘んできていたもん」

母はもう調布に住んでいたことも覚えていない。それでも、「そうだったかしらねぇ」とどこに住んでいたかなどはどうでも良いことのように微笑んでいる。

私1人だったら、こんなに暖かい言葉はかけられなかった。昔から花が好きだった母のことなど思い出せなかった。

娘は母が歩くときには常に腕を組んでくれた。母も孫にそんなことされるのが嬉しいのか、わざと大げさに抱きつくように体を委ねている。


途中に父の墓に寄ったりしたため、長旅になった。夕方が近くなると、母はいろいろと心配しだす。ホームにはちゃんと連絡してあるのか、夕飯はどうすれば良いのか、おみやげは買ったのか。大丈夫だよと言っても、何度も同じことを聞く。

娘がiPhoneをいじって、何かを聞いている。「聞くんだったら、カーステレオから流して良いよ」と言ったら、「ううん。待って、今探しているの」と言う。しばらくして、カーステレオにつないで流し始めた。

「何これ?」

「おばあちゃんが好きだって言って、歌っていた歌」

東京の滞在中、母がずっと口ずさんでいた歌があった。母は歌が好きで良く歌を歌う。10年くらい前までまったくの健康体であったときには年末に第9を歌っていた(1000人くらい市民コーラスが参加できるイベントがある)。脳に良いと思って、昨年末には姉と3人でカラオケにも行った。

そんな母が東京滞在中に、今までに母の口からは聞いたことの無い歌を歌っていたので、なんの歌だか気になってはいた。

花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう 

こんな歌詞の歌だ。昨夜、これが復興支援ソング「花は咲く」であることを知った。夕方になり、母の心が不安でいっぱいになったのを見て、娘は母が安心するようにと探してかけてくれたのだ。

車内にiPhoneからの歌声と母の声が響く。歌詞をところどころ間違えながら、でも次の部分だけはひときわ大きい声で歌う。

花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう 


母を無事自宅(ホーム)に送り届けて、真っ暗な山道を帰る中、娘に言った。

「優しい心を持って生まれてきてくれて、ありがとう」

直接は言えなかったけれど、もう眠りに入っただろう母にも言った。ありがとう。

復興支援ソング「花は咲く」 

http://www.nhk.or.jp/ashita/themesong/

2022年4月18日月曜日

母のメモ

母の施設で遺品を整理していたら、古い日記などに紛れて、手書きのメモが見つかった。母はメモ魔だったため、色んなことをメモに残していた。普通の人だったら用が終わったら捨てているようなメモも残されていた。これはこれで母の普段の生活が垣間見れて、亡くなった今となっては感慨深かったり、改めて悲しくなったりする。

そんな中、いつ書いたのかわからないが、自分の葬式に関するメモが見つかった。


葬儀に関する件
    できるだけ簡素に

◎無宗教 花いっぱい
    祭壇花のみ    音楽を静かにながす

認知症が進んだ状況で書ける文章ではないので、少なくとも6年以上前だろう。いつ書いたのか。施設でエンディングノートを書くように勧められたりしたのだろうか。

これを見つけて、内容を把握した瞬間は「こんなの見つかるところに置いておいてくれるか、事前に話してくれないとわからないよね」と姉と笑っていたのだが、「でも、良かった。おふくろの希望通りの葬式にできたよね」と言い始めた瞬間に自分でも驚くくらいに感情が溢れ出てきて、号泣してしまった。

父は仏教で葬式をあげた。しかし、母は若い頃にキリスト教の教会に行っていて、父ともその集まりで知り合った。10年くらい前も銀座教会に行ったりしていた。

もしかしたら、父と同じ仏教が良いのではないか。いや、父と知り合うきっかけでもあり、最近(10年以上前だが)にはまたクリスマスに教会に行くようになっていたことを考えると、キリスト教が良いのではないか。こんなことも考え、母の葬式を無宗教であげることに迷いはあった。

母も無宗教を希望していた。それを知った時に、安堵のあまり感情が溢れた。

バイオリンとキーボードの二重奏で静かに音楽も流した。

良かった、本当に。

2022年4月9日土曜日

母が亡くなった。享年91歳。


私は問題児だった。

幼稚園では喧嘩して友達の耳を齧ったり、怒られたら屋根に登り降りてこない。それでも、母が選んだその幼稚園は情操教育を行うことをモットーにし、子供の個性を尊重してくれていたため、厳しく怒られた覚えはない。

しかし、小学校に入ると、すぐに様々な問題を起こした。授業がつまらずに、すぐに飽きてしまうのだ。そんなある日、覚えたての口笛を吹きたくなり、授業中にも関わらず、吹いてしまう。先生に廊下に立っていろと言われて立つものの、いつまで立っても中に入れて貰えなかったので、あろうことかそのまま家に帰ってしまった。

授業をしているであるべき時間に息子が帰って来たのを見て、母がなんと言ったのかは覚えていない。私もどんな言い訳をしたのだろうか。いずれにしろ、母に連れられて学校に戻った私はしれっとそのまま授業に復帰した。

他にもガキ大将のような友達に脅迫状を送ったこともあった。小学校3年生の時だ。

ある朝、同級生と学校に向かっていると、母が学校から戻ってくるところとすれ違った。母は私のことで学校に呼び出されていたのだ。「卓也、◯◯君に変な葉書送ったか?」と聞く。私は脅迫状を送ったことなどすっかり忘れていたのだが、その一言で思い出し、「送った」と答えると、母は「一人でやったのか?」と聞く。同級生5人くらいとやったので、そう伝えると、「先生は卓也が一人でやったと言っている。こんなことをする子は及川君ぐらいしかいないと言われた。ちょっと先生に話してくる」と言い残して、また学校に戻った。

その日の朝会で、先生は脅迫状が送られたことをクラスで話し、誰がやったのかと聞く。私と共犯の同級生が手を挙げた。先生は少し驚いたようだった。我々は酷く怒られ、確か被害児童の家に謝りに行ったのではないかと記憶している。

単独犯でなく、共犯者がいることで罪が無くなるわけでもない。私が一人でやったのではないと知った母が凄い剣幕で学校に戻って行ったのを頼もしく思うとともに、不思議に思ったように記憶している。きっと、一方的に私だけが問題児であるように扱われるのを母は憤慨したのだろう。

他にも数えればキリがないほど、私は問題を起こしていた。今だったら、きっとなんかの病名が付けられていることと思う。

母はそんな私を暖かく見守っていてくれた。母は幼児教育の専門家だったこともあり、そんな人の子供がなぜ?と言われていたようだ。悔しかったと後から私に話してくれた。でも、私を頭ごなしに叱ることは無かった。

ある時、私がまた何か問題を起こして母が学校から呼び出された。さすがに怒られるだろうと思っていたら、少し遠くにある公園に遊びに行こうと言う。交通公園と呼ばれていた公園だったと思う。自転車で二人して出かけ、ひとしきり遊んで帰る道で、「卓也、もう少しお友達と仲良くしようね。みんなと一緒に行動できるのも大事なんだよ」と優しく諭してくれた。このあたりから、私も少しずつ集団生活に馴染んでいった。もっとも、小学校6年の時に通っていた進学塾の先生からも「この子はとんでもない大人になりますよ」と言われたので、小6の段階でも普通の子とはだいぶ違っていたのだと思う。

こんなふうに、学校から問題児だ、異常だと言われながらも、ずっと守り続けてくれた母だった。


2歳の時に大病をした。

敗血症という病気だ。当時だと乳児の死亡率が7割に達していたらしい。5歳上の姉は朝起きて、全身発疹だらけで高熱で苦しむ私を見て、助からないんじゃないか、幸が薄い子だと思っていたそうだ(7歳でそんなことを思うのか疑問なので、後年の創作ではないかとも思う)。

幸にして、数ヶ月の入院を経て退院したが、その後も病気続きだった。

小学校2年生の時には急性腎炎。2ヶ月くらい学校を休んだ。

中学校に入ると、鉄欠乏性貧血。学校こそ休まなかったものの、しばらく体育の授業は見学となった。

病弱だったこともあり、母は私に過保護だった。と同時に、健康オタクとなった。健康食品に懲り、ありとあらゆるものを摂取させられた。

紅茶キノコ、良くわからない水、その他にも名前も覚えていないものたくさん。この良くわからない水はとても不味く、そのままではとても飲めない。そこで、まず無塩の梅干しを口に入れさせられ、そこで口が麻痺している間に液体を飲み込むように言われた。それでも不味いものは不味い。しかし、繰り返しているうちに慣れてきた。

大人になってから、罰ゲームなどで濃い青汁を飲まされることがあるが、大概のものは問題なく飲める。躊躇なく、ごくごくと飲む。それもこれも、小さい頃に口にするのがもっと辛いものをいくつも飲み食べしてきたからだ。

母のこの試みが功を奏したのか、体が大きくなるにつれて、病気もしなくなった。


母は日本人離れした顔立ちをしていた。

子供としてずっと接していたので、人に言われるまで気づくことは無かったのだが、鼻は鉤鼻で、緑や茶が混ざった目の色をしている。

中学に入り部活の合宿で駒ヶ根に向かう時のこと、過保護だった母親は部の一堂が乗る列車と同じ列車で駒ヶ根にある親戚を訪ねることにした。わざわざ我々の車両まで訪ねてきて、顧問の先生に挨拶をしたのだが、中学生にもなって親が同伴するようで恥ずかしかった私は逃げてしまった。すると、しばらくしてから顧問の先生が近寄ってきて言った。「いくら親が日本人っぽくないからと言って、産んでくれた親を恥ずかしいと思うとは何事だ」と。自分の母親が日本人っぽくないと思ったことは一度も無かった私はびっくりした。

私は鼻はでかいが鉤鼻ではない。目の色は少しだけ茶色が混ざっていると言われることがある。母の体の一部は私に受け継がれているのだろうか。


母は終戦を満州で迎えた。ロシア(ソ連)兵から逃げるようにして、命からがら北緯38度戦を越えて帰国した。関東軍の大将だった祖父はシベリアに抑留され、帰国後すぐにGHQに連れて行かれた。

このような話は幼い頃から母に聞かされていたが、何度も聞かされているうちに飽きて、適当に聞いてしまっていたので、実は正確には覚えていない。母の話も系統だって話されたものではないので、ところどころに抜けがある。

東日本大震災後、私は福島以北の東北に初めて足を踏み入れたが、実は岩手や宮城は父と母の思い出の土地だ。父は岩手県花巻の出身で、母とは仙台かどこかで出会ったはずだ。母の生まれはどこだろう。聞いたはずだが忘れてしまった。父は私が学生の頃に亡くなっている。

晩年、母は施設に入っていた。その施設の人が入居者の思い出を聞き取り、文章にしてくれている。しかし、すでにその時、認知症が進んでしまっていた母は細かいことは話せなかったようだ。

元気なうちにもっと話を聞けば良かったと後悔している。


2012年に、「プロフェッショナル 仕事の流儀」というNHKの番組に出る機会を得た。企画自体は一年前の2011年から始まっている。

実は、この話を会社の広報から最初聞いた時、事の深刻さも理解しないままに軽く承諾してしまったのだが、その後、仲が良かったマーケティングの人から「卓也さん、聞いたよ。プロフェッショナルの取材受けるんだって。あれ大変だよ」と言われ、急に心配になった。そのマーケティングの同僚曰く、出演後は外を歩いていても声を掛けられるようになり、日常の生活にも支障をきたすらしい(実際にはそんなことは無かった)。

当時は頻繁に記憶を無くすほど飲み歩いていたこともあり、そんな衆人環視されるような生活はまっぴらだと、広報に「この間の話、やっぱり断りたいんだけど」と話したが、今さら断るなと4人くらいに囲まれて説得された。

この時、母のことを考えた。

母は私が取材を受けた雑誌や新聞の記事を、それこそ宝物のように保存していた。1990年代中頃、インプレスのDOS/Vパワーレポートという雑誌に書いたのが私の雑誌デビューだ。その雑誌を母は自分で購入し、いつでも手に取れる書棚に入れていた。他にも取材を受けた雑誌など、母は大切に持っていた。

東日本大震災が発生した2011年、震災復興活動をしながら、母を病院に連れていった。母の物忘れが、年齢によるものとしては酷いと思ったからだ。診断の結果はやはり認知症。すでに知らない場所に一人では行けなくなっていた。

少し前にテレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組に私が勤めていた会社が紹介され、私がスタジオでデモをすることになった。村上龍さんや小池栄子さんと少し絡ませて頂き、放映でもその場面が少し使われた。母はこの時も喜んでくれた。

認知症になってしまった母だが、また私がテレビに出たならば喜んでくれるのではないだろうか。もしかしたら認知症の進行も遅くなるのではないだろうか。そんな気持ちもあり、引き受けることにした。

翌年の2012年に番組は放映された。DVDに録画した番組を施設の母の部屋で一緒に見たのだが、その時はすでにテレビに息子が映っているという事実はわかるものの、ストーリーは追えなくなっていた。一緒に見ていても途中で飽きてしまい、関係ないことを話し始める。ただ、施設の方から「息子さん凄いわねぇ」と言われた時は嬉しそうに微笑んでいた。

少しは自慢できる息子になっていただろうか。


最期の数年は、下半身を怪我をして車椅子生活となり、行動が抑制されたことでさらに認知も進んでしまったのか、徐々に私や姉のこともわからなくなってしまっていた。わからないながらも行くと笑って迎えてくれる母。

しかし、新型コロナの影響で面会があまりできなくなった一昨年くらいから誤嚥性肺炎を何度か起こし、心不全も悪化した。都度、医者からも驚かれるほどの回復を示したので、今回もと僅かに期待していたが、それも叶わなかった。

火曜日の午後、見舞いに急ぐ途中、施設から息を引き取ったことを伝えられた。あと1時間。あと1時間早ければ寂しく一人で旅立たせることもなかったと悔やまれる。


今日、家族葬という形で母を見送った。質素だったが、家族や親族に囲まれ、心のこもった会になった。

母は音楽が好きだった。葬儀社の方から色々なオプションを聞く中で生演奏も可能と聞いたので、お願いすることにした。鍵盤とバイオリンの二重奏。楽曲リストから曲をリクエストできるので、その中から何曲か、そしてそれ以外でも可能ならばと数曲選んだ。父が生きていた頃に家族で行った映画のテーマ曲。母が3月になるといつもピアノで弾いていた幼稚園の卒園式で弾く曲。他にも何曲か。そして、絶対に外せなかったのが、東日本大震災のチャリティーソングとして作られた「花は咲く」。この曲を最初私は知らなかったのだが、母が良く口ずさんでいたことから知った。おそらく母は施設で合唱でもして覚えたのだろう。よほど気に入ったのか、私や姉の家に宿泊するために、施設との間を送り迎えする時などに車の中で歌っていた。この曲は絶対にお願いしよう。出棺の際にはこの曲にしよう。

参列される親戚のために、母の若い頃から今までの写真をお見せしたらどうだろう。そんなふうにも思い、Googleフォトなどを使ってフォトムービーを作った。母が好きそうな(著作権フリーの)楽曲も被せた。フリップタイプのChromebookをタブレットのようにして動画をループ再生し、デジタルフォトフレームのようにしよう。

葬儀の会場では、二重奏もデジタルフォトフレームも好評だった。

しかし、葬儀の場の演出などは所詮家族の自己満足に過ぎない。なぜ、生きているうちに音楽をもっと聞かせてあげなかったのだろう。なぜ、昔の写真をもっと見たりして、一緒に楽しまなかったのだろう。車椅子になる前や認知症がまだ進行していないときに時間はあったはずだ。

少し拗ねたように、そうよ、卓也。と怒っている母の顔が浮かぶ。


最後まで親孝行の息子にはなれなかったが、私は母の息子であったことに感謝している。母が母でなかったならば、私は今のように好きなことをして生きてはこれなかったろう。私が何をしても、いつも味方であってくれた母。

お母さん、ありがとう。