白田 秀彰
「新書365冊」のあとがきで良書として紹介されていたのを読んで、本書を手に取った。
はじめはインターネットにかかわる法律、たとえば著作権などについて解説している本だと思っていたのだが、良い意味で大きく裏切られた。(もし、そのような書籍を希望するならば、私が昨年読んだ「インターネット時代の著作権―実例がわかるQ&A付」を薦める。)
もちろん、中で著作権とインターネットの関係などについても解説されているが、本書の目的はそのようなものではない。インターネットという新しい社会基盤の中でどのように「法と慣習」が形成され、根付いていくかが解説されている。いわゆる、法学の授業をインターネットをフィールドスタディの場として行っているような感じだ。
普通ならば、難しくなる可能性のある法学の解説もインターネットを例にとることで、非常にわかりやすくなっている。ただし、HotWiredでのコラム連載が元になっているためか、章立てなどにまとまりがない。思いついたものを書き連ねている感じは否めない。読んでいる最中は気にならないのであるが、読み終わった後に、気になった箇所を再度読み直そうとしても見つけるのが難しい。もう少し加筆し、全体の構成を見直すなど、全面改訂してもらってから出版してもらえば、もっと良い本になったろう。
本書の中で、インターネットの匿名性について記述している部分があるが、私はそこに一番共感を持った。第2章「権利をしっかり知っておく」の「名誉と自力救済そして法」で
- ネットワークで何の助けもなく所有しうるものは「名」である
- 自立的な秩序を形成するためには、「名」を所有する必要がある
- 「名無しさん」の海にまどろむことの危険について考えてほしい
ネットワークで法を生み出そうとするならば、責任を引き受ける覚悟ある独立した個人が、主体にならなければならない。というか、西洋法の歴史において法発展は、責任を負う独立した人々によってなされてきた。ネットワークが完全匿名の遊戯的世界でよいと考えるなら、現実世界の権力の介入を招き、そこからさらに逃避していくためには、実力行使としてのクラッキング技術が必要になるだろう。その結果、さらなる混沌とより一層の権力の介入を招き、圧倒的多数の利用者がID管理システムの下に置かれる一方、技術エリートたちのみが自由であるような実力主義世界になってしまう。これは、最悪とは言わないにしろ、明るいシナリオではない。ここで言う、「ネットワークにおける名」というのは、必ずしも現実世界(リアルワールド)での本名である必要はない。固定ハンドルのようなものでかまわない。ネットの世界の1人格を表すものとしての「名」が必要であり、常に匿名で書くことはふさわしくないのではないかと筆者は、そして私も考える。
ネットワークに法をもたらすには、他人の力に依存しないで自力救済の精神と、それを支える手続き的正義の実現、その手続き的正義を支える名誉感情、権利意識といった、えらく騎士道的な精神態度が要求される。
<中略>
自らの力と正義に恃み(たのみ)、責任を背景に決闘を行う西部劇的精神は、よかれあしかれ、ネットワーク時代の法発展を駆動している。お上に恃み、集団に溶け込むことをよしとする日本の法文化があることは事実。しかし、「名無しさん」の海にまどろむことの危険について少しだけ考えてほしい。現実世界の人格を賭ける必要はない。ネットワークにおける「名」を賭けて活動する武士道・騎士道精神を持ってほしい、とお願いするのは、やっぱり時代錯誤なのだろうか。
インターネットの慣習は利用者が作り上げていくものであるが、そろそろどのような世界をインターネットで作り上げようとしているのかを利用者自身が考えはじめるべきだろう。
なお、恥ずかしい話、私は英米法(判例主義)と大陸法(法律主義)の違いを知らなかった。覚えておくこと > 自分