本書はサンフランシスコからの帰国便で読み終えたのだが、実は昨年秋に途中まで読んでいた。そのときは同僚と関西方面に出張中だったのだが、ホテルの部屋に置いてある本書のタイトルを見て、思いっきり同僚に引かれてしまったことを覚えている。読んでいる本を見つけられて、思わず言い訳しなきゃいけないなんて、官能小説に何か文学的な意味合いをつけることで配偶者や彼女に言い訳をしているみたいだ。
この本、読むタイミングによってはダークサイドへの手引書になってしまいそうな予感がする。筆者の話はどこまでが本当でどこまでがフィクションなのかわからないのだが、自分の現在の人間関係を書いた以下の部分で本書がどのような本か一発でわかるだろう。
そして、自分の「波乱に満ちた」六十年を想い返してみた。十年前に「人生を半分降りる」宣言をした。その後、着々とあとの半分も降りる方向に傾斜していくように心がけ、親族・家族の絆を完全に切った。親の墓参りにも行かず、カトリックの妻とは離婚できないが、一緒に住んでいるといっても、年間(間違って)顔を合わせるのは一分未満。正月も、誕生日も、一緒に何かすることがなく、まったく交流のない「同居」状態である。息子は別のアパートに下宿している(らしい)が、どこにいるのかも知らない。筆者の家族との関係は5章の「家族を遠ざける」というところにも書かれているのだが、そこにはさらに何故筆者がこのような考えに至ったかについても書かれている。
五年前に姪(妹の娘)の結婚式の案内が届いたとき、自分の体内の深いところで「行きたくない!」という明晰な叫び声を聞き、それに従ったことをきっかけに、いかなる親戚付き合いをも絶っている。妻が親戚に起こった事件をときおり筆談形式で知らせてくれるが、最近では、母の一番末の妹が昨年十一月に死んでいたことを一ヶ月もあとに知った。ということは、以前は比較的親しくしていた叔母の死も葬式も、誰も私に知らせてくれなかったということだ。このことも、やはり「社会的不適合者」という太鼓判を押されたようで、とても嬉しかった。
<略> 妻や息子が父親に期待する「心からの愛」はただの社会慣習にすぎない、という結論に達した。私の父はその社会慣習に従い、母から「愛のない人!」と罵倒されつづけ、それに抵抗せずそれに甘んじて死んだ。母は狂気寸前にまで陥りながら夫に「心からの愛」を要求しつづけ、かなえられずに死んだ。二人は壮絶な戦いにどろどろになって死んでいったが、なんでこんな虚しい戦いをする必要があるのか? もしかしたら、このすべては根本的に間違っているのではないか? こういう疑問が次第に私のからだの中に広がっていったのである。なんだつまりは家族関係がうまくいかなったことの理論武装のためだったのか、という気が正直しないでもない。哲学者っていうのは、単なる家族の不仲までいろいろ理論が必要なのかとさえ思う。
私は父母のように、残りの人生を果てしなく虚しく、果てしなくくたびれる戦いのために費やしたくないと思った。そうだ、すべては変えられるのだ! 頭上から重石が取り除かれたように、妻や子からさえきっぱり離れてもいいのだ、という新しい思いがむくむく育っていった。
ただ、ここまで極端ではないにしろ、社会常識をすべて疑ってみるというのは私も同意する。必ずしもそれに常識をよしとし、言い方は悪いがその既成の考えに縛られた仲良しクラブのメンバーになりたいとは思わない。実は多くの人が本当はそう思っているのではないのか。ただ、「仲間はずれ」になる、筆者が呼ぶ「共感ゲーム」から外れるのが怖くて実践できないだけではないのかと思う。
最後に筆者が、「人間嫌いとして人生を全うする(しかも充実して)ためのルール」を10にまとめている。
- なるべくひとりでいる訓練をする
- したくないことはなるべくしない
- したいことは徹底的にする
- 自分の信念にどこまでも忠実に生きる
- 自分の感受性を大切にする
- 心にもないことは語らない
- いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない
- 非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない
- 自分を「正しい」と思ってはならない
- いつでも死ぬ準備をしている
ちなみに、筆者の中島義道氏については、Wikipediaでの解説やいろいろなサイトで読める彼のコラム/コメントや彼への批評などを読むと良くわかる。私は中島氏の著作は今回始めて読んだのだが、ほかも読んでみたくなった。少し毒気が強いように思うので、時期を選ばなきゃいけないかもしれないが (^^;;;
あと、こんな感じの本が好きな人は、私が昨年読んだ「他人と深く関わらずに生きるには」もお勧め。