私はブログでは意識的に「僕」という言葉を使わないようにしている。それはいまだにモラトリアム(死語か)である自分がばれるのが嫌だから。「僕」と自分を呼ぶとき、もちろん意識せずに自然に会話で使うことも多いが、そこには反体制やアウトローであろうとする自分がいることも多い。
東氏は常に自分を「僕」と呼ぶ。
「地球よとまれ、ぼくは話したいんだ」を読んだあと、もっと東氏を知りたいと思い、Amazonで探してみたところ、氏の生前の書き物を集めた本書を見つけた。一部、「地球をとまれ、ぼくは話したいんだ」と重なるところもあるが、多くはパンフレットへのメッセージであったり、雑誌への寄稿であり、今となってはおそらく本書でしか読めないものだろう。短い文章の中に込められた氏の思い、それはつまり体制への反発であったり、1990年代以降はしらけきった時代に逆らうな思いであったりなどだが、を感じることができる。
それにしても、氏のメッセージは胸に刺さる。「かっこいい」という言葉以外に言葉が見つからない自分の語彙不足を恨みたくなるのだが、かっこいい。アジテーターという言葉ももしかしたら死語かもしれないのだが、本当に最後までアジテーターであったように思う。
それにしても悔やまれるのが、東京キッドブラザースを見ることのできる時代に生きていながら、結局一度も見なかったことだ。演劇は大学や社会人になってから何度か見に行ったのだが、東京キッドブラザースを見ることは無かった。本当に悔やまれる。
と、一人盛り上がっているが、今の若い人も私と同じ感性で彼を素敵だと思うだろうか。
東由多加が遺した言葉