2010年12月13日月曜日

読んだ本

読んだもののブログに書いていないものをまとめて書いておこう。
  • 厚労省と新型インフルエンザ
    当時、厚生労働相医系技官だった著者による一種の告発本。内容としては共感できる部分も多いが、告発の仕方としてこのような方法はあまり好きになれない。

  • 金融恐慌とユダヤ・キリスト教
    島田裕巳氏の本は盲目的に気に入る傾向が強いのだけれど、この本も面白かった。経済危機を西洋社会では終末論と関連付けて語ることが多いという論説。たしかに、キリスト教をはじめとする宗教を想定させるような発言やマスコミの報道が多かった。面白い視点。

  • ヤフー・トピックスの作り方
    昔、ニュース系の製品を担当していたこともあって、Yahoo! Topicsは良く見ていた。当時から、いわゆる「編集」をしっかりやっていると思っていたが、想像以上に編集をやっていることがわかる。見出しは13文字。これだけを学んだだけでも意味がある。ただ、当事者ではなく第三者が書いたものを読みたかったようにも思う。忘れてしまったのだけれど、確かこの本は献本してもらったもの。感謝。

  • 「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト
    これも献本いただいたもののはず。感謝。フリービットという会社は前職のときに知り合いになったのだけれど、実直な会社で大変好感を持っている。渋谷にあるオフィスの受付で待っているときも、通りすがる社員が全員、「もう担当者には連絡とれていますでしょうか」など声をかけてくれていたのを思い出す。社長の石田さんが若いのに浮ついたところがまったくないので、その影響かと思っていたが、社内教育がしっかりしていることもわかった。この本はフリービットで実践されていることが書かれている。残念なのは、ちょっと読みにくいこと。なんでだろうと思ったのだが、よくわからず。教科書みたいに固い感じがするためかもしれない。

  • 世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか
    自民大敗の原因が反小泉路線にあるのではないことを統計を駆使して証明している。極めて明快。マスコミの思い込みによる論説が事実を反映しないこともあることを示す。この本はもう1年前の本なのだが、それ以降特にマスコミの論調に変化がないのも予期されていることであるが、虚しくなる。

  • 法人税が分かれば、会社のお金のすべてが分かる
    法人税を通じて会計などを解説している。明快。宗教法人の税金についての解説を導入に持ってくるなど、全体的に身近な話題から税金を解説している。難しい話題であることには変りないが、かなりとっつきやすくなっている。この本も献本いただいたのかも。忘れてしまった。

  • ネイティブ500人に聞いた! 日本人が知らない、はずむ英会話術
    献本いただいたもの。正直、ペラペラとめくった程度でしか見ていない。カジュアルな会話用の文例が多く出ている。CD付き。

  • スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則
    この本は今年一番のお勧め。スティーブ・ジョブズのプレゼンに感動しない人はいないだろうが、彼のようなプレゼンをしたいと思うならば、必読。

  • 電子書籍の衝撃
    おなじみ佐々木俊尚氏の一冊。日本では電子書籍の市場がまさに今盛り上がりつつあるが、この本はiPadの登場前に出された。その時点での最新の情報をデータだけを提示するのではなく、音楽業界での前例を出すなど多角的な視点で語ったもの。純粋に読み物としても楽しめる。今でも示唆に富む内容。献本いただいたもの。

  • マスコミは、もはや政治を語れない 徹底検証:「民主党政権」で勃興する「ネット論壇」
    同じく佐々木俊尚氏の著作。献本いただいたもの。ブログが一時の勢いを無くしているかもしれないし、Twitterなどで不確かな情報が伝播することも見受けられる。それでもマスコミに対する不信感は減らないし、むしろネット論壇と呼ばれるものへの期待が高くなる。ただ、そのネット論壇のダイナミックな動きを常に追うことは不可能だ。佐々木氏はTwitterでの議論を追い、自ら行い、ネット論壇を検証する。どれだけ多くのブログを読み、文献にあたったのだろう。

  • 本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み
    便利なウェブサイトの紹介。知らないサイトがあったりしてそれなりに楽しめたが、ちょっと総花的な印象が否めない。佐々木俊尚氏の著作。献本いただいたもの。

読んでブログにしていないのは、ほかにもまだ数冊はあるのだけれど、今日はここまで。

2010年11月23日火曜日

Jazz

青年は荒野をめざす」(五木寛之氏作)の世界はこういうものだったのかもしれないと思った。

彼らはプロなのかアマチュアなのかもわからない。こういう場所で金を貰って演奏しているのだから、プロなのかもしれない。

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演奏が始まるからと言って、客は静まり返って演奏を聴き入るわけでもない。酒を飲み、食事を楽しみ、友人と会話する。その喧騒に負けないようにトランペットの音が響き渡る。ドラムがビートを刻む。

チャールズ・ミンガスだったか、演奏を聴かずに食事をしていた客を怒ったという話があったが、ここはそういう世界とは無縁だ。Jazzが大衆音楽だったことを再認識させる。良い演奏だと客も注目するし、そうじゃなかったら、ただの雑音として処理される。

その夜の彼らの演奏はオーネット・コールマンやセロニアス・モンクのナンバーなども含めていたが、キューバ音楽をモチーフにしたエキゾチックなものも多かった。だから、「青年は荒野をめざす」を思い出したのかもしれない。日本で聴ける米国のJazz以外のJazzをロシアで、そしてヨーロッパで見つけた主人公のように。


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同じアジア人同士なのに、共通言語は英語だけ。そんな中でもコミュニケーションできる。その夜に飲んだ酒はいつもとは違ってカクテル。隣にいる女性がやけに綺麗に見えるのは酔っているせいか。口説きそうになって、あわてて彼女が同僚の配偶者であったことに気づく。なんてね。

短い台北出張で同僚が連れていってくれたJazzバーでのこと。

2010年10月28日木曜日

字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ



この本の筆者ではないが、ある有名な字幕翻訳者の翻訳は英語を少し知る人にはひどく評判が悪い。ある映画監督が翻訳されたものを再度英訳してそのひどさに絶句して翻訳者の変更を依頼したとも言われている。私のアメリカ人の知人も、日本語が少しわかるので、字幕が元の英語のセリフとあまりにも違うので驚いたと言っていた。

私などは漠然と、そうは言ってもいろいろと映画の字幕って特殊な要求が多くありそうだから大変なんだろうくらいに思っていたのだが、この本でそんなレベルではないことがわかった。

たとえば、字幕に要求される文字数制限を知っているだろうか。人は1秒間に4文字しか読めないというデータがあるようで、それにしたがって日本語の字幕の文字数は決定される。本書の中に以下のような例が出てくる。

男「どうしたんだ」
女「あなたが私を落ち込ませているのよ」
男「僕が君に何かしたか」

映画ではそれぞれを役者が1秒ちょっとでしゃべっている。したがって、字幕もすべて5文字に収めなければいけない。筆者は次のように変更した。

男「不機嫌だな」
女「おかげでね」
男「僕のせい?」

どうだろう。見事と言わざるを得ない。

映画字幕翻訳の本ということで英語の話が多く出てくるかと思いきや、中身はほとんど日本語についてだ。字数制限があり、日本語として映画のエッセンスを見ている人に伝えなければいけないという字幕の役割から、勢い日本語について考えることが多くなるのだろう。

漢字を使える場合と使えない場合。使えない場合にルビを振るか、それとも混ぜ書き(「だ捕」、「誘かい」、「ばん回」、「危ぐ」、「そ上」などのことだ)にするか。混ぜ書きは常用漢字などによる悪影響という。実際、新聞やテレビなどでもこのような混ぜ書きを見るのだが、筆者が言う「ひらがなに置き換えることで漢字それ自体が持つ意味を完全に消し去ってしまうことではないだろうか」という指摘はもっともだ。イデオグラフィック(表意文字)である漢字をもっと大事にしたほうが良い。

ほかにも、句読点というのは明治以降に導入されたものであるとか、日本語には「?」も「!」も無かったという指摘だとか、出来るだけ文字数を少なくしたいという一環した思いとともにユーモラスを込めて語られるが、日本語を考える上で重要な指摘ばかりだ。

エッセイ風な感じで読みやすい。お勧め。

2010年10月27日水曜日

駅伝がマラソンをダメにした



結構若い頃から正月に箱根駅伝を見ていたように思っていた。ところが、この本によると、日本テレビによる完全中継放送が始まったのは1987年だという。その前はテレビ東京が放映権を持っていたが完全中継ではなく、さらには日本テレビも完全中継を開始したのは1989年だ。それほどに箱根山中での生中継は技術的に難しかったようだ。

話がずれた。父の影響で早稲田贔屓だった私は野球もそして駅伝も早稲田を応援していた。1987年というとすでに私も早大生だったのだが、良く思い返してみると大学時代に駅伝をテレビの前で熱く応援した記憶はない。そうすると、やはりこの本が言うように90年代以降の箱根駅伝ブームから私もテレビの前で応援するようになったのかもしれない。ちなみに、早稲田は箱根駅伝の伝統校であるが、テレビ放送が始まってからの成績はさほど良くはない。90年代の黄金期の記憶が強いようだ。

本書のタイトルとなっている駅伝がマラソンをダメにするというのは、以前別のところからも聞いたことがある。ダイエーにいた中山選手が高校で指導にあたっていた時だったと思うが、駅伝という集団スポーツは本来の個人スポーツである長距離陸上競技とは相容れないというような発言をしたことがあったと思う。確か同じ頃に早稲田の渡辺選手が期待されながらも故障し、オリンピック選考に漏れたことがあったと思うが、これも駅伝の影響を指摘されていたのではないかと思う。

本書はタイトルで駅伝を批判しているのだが、実際には筆者の駅伝への熱い思いも中で書かれている。駅伝、特に箱根駅伝の弊害は、距離が長すぎるために中距離や短距離の選手が出場する機会がなく、大学特に関東の大学の長距離偏重主義を招いてしまうことやそれこそ箱根駅伝がゴールになってしまい、マラソンへの挑戦を考えない選手が増えてしまうことなどがあげられている。高校生も箱根駅伝を目指すがあまり、中距離には見向きもせずに、長距離に鞍替えする。大学も箱根駅伝による大学宣伝効果を考えるあまりほかの陸上競技よりも長距離しかも箱根駅伝を優遇する。結果、インカレの地位は落ち、関西圏の大学の地盤沈下は進み、日本の男子マラソンの国際競争力は落ちる。女子駅伝の人気がさほど高くないのと、日本の女子マラソンが国際的に競争力が高いのは偶然ではない。もっとも、女子の駅伝では距離にしても時期にしてもうまく考えられているようである。


本書の中では、箱根駅伝の常連校、新興校などの特色も紹介されるなどして、箱根駅伝ファンにも楽しめる内容となっている。筆者の箱根駅伝への愛情も感じられる。ここでの提言が活かされることを願う。

2010年10月26日火曜日

僕はガンと共に生きるために医者になった ― 肺癌医師のホームページ



2001年に肺癌を発症し、その闘病の模様をホームページに記した医師がいた。本書はそのホームページを書籍化したものだ。

本書の中にその書籍化の話も出てくる。書籍化されたものを本人が目にすることが出来たかどうかは本書からはわからない(ただ、二宮清純氏によるあとがきからは間に合わなかったと思われるように読み取れる)。だが、ホームページを通じて闘病の様子を医師として冷静に書き記すこと、そしてこの書籍化が彼にとっての最後の生きがいであったことは間違いない。

2001年というとまだブログが一般的で無かったころだ。今では当時のホームページを見ることが出来ないが、おそらくHTMLを手で書くか、簡単なHTMLエディタを使って書いていたのだろう。掲示板も設置されていたようだ。徐々に自由の効かなくなる体で大変だったと思う。

少し前にある病気のことを知る必要があり、ウェブで検索してみたことがある。あまり情報がなく、こういう時はブログだと思って検索してみたら、多くが途中で更新が止まっていた。その時の恐怖というか行き場のない怖さや悲しさは言葉では言い表せない。死の恐怖というのは医師でもあると思うのだが、家族との貴重な時間を大事にしつつ、自分の闘病や日本の医療システムについて最後まで発信し続けたそのような強い心を私も持つことがいつかは出来るのだろうか。

手術不可能な肺癌、それは死を意味する、であったことがわかった後、筆者は遺影用の写真を撮影している。ふと、自分が急に死んだら、遺影には何を使われるのだろうと考えてしまった。

2010年10月24日日曜日

走る本

昨年から走っているのだけれど、今年になって少し本格的(って言ってもまだフルマラソンも走ったこと無いんだけど)に走り始めている。

最初は「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだあたりから走ることに興味が芽生えて、そして「3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから」で実践をし始めた。

ランニング雑誌なども買うようになったり、自分でも驚くほどの熱中ぶりだ。今年に入って読んだランニング関係の本は以下の通り。

  • ゼロからのフルマラソン (祥伝社新書132) [新書] 坂本 雄次 (著) - 日テレの24時間テレビでのマラソンのトレーナーの坂本氏の本。彼はもともと陸上競技をやっていたわけではなく、30歳になってダイエットのために始めてから、東京電力の陸上部の監督になったそうだ。素人向けにフルマラソンまでの道を解説。知っていることが多いけど、励まされる。
  • 1時間走れればフルマラソンは完走できる (GAKKEN SPORTS BOOKS) [単行本] 鍋倉 賢治 (著) - 筑波大学で一般の学生向けにフルマラソン完走のための授業を行っている著者によるフルマラソン完走のためのガイド。多くの他の本と重なるところも多いけれど、大学での授業に基づくデータが参考になる。
  • 知識ゼロからのジョギング&マラソン入門 [単行本] 小出 義雄 (著) - 高橋尚子さんの指導者として知られていた小出義雄監督の著。これも他の類書と重なるところも多いが、モチベーションを高めるためには良いだろう。トレーニングコースのバリエーションを持つと良いなどというアドバイスは参考になった。ちなみに、「トレーニングはなるべくコンスタントに続けることが基本だ。理想をいえば週に6日は走りたい。また、走力を向上させていくには、少なくとも3~4日は走ったほうがいい。」とこの本では言っている。
  • マラソンは毎日走っても完走できない―「ゆっくり」「速く」「長く」で目指す42.195キロ (角川SSC新書) - 同じく小出監督の著。この本ではタイトルにあるように、ただのんべんだらりと毎日走っているよりも、しっかりとメリハリをつけて走ることの重要性を説明している。完走できないランナーの多くは、呼吸が苦しくなってではなく、脚が動かなくなって途中諦める(考えてみたら当たり前。タイムを気にしないのだから、十分休みながらいけば、呼吸が苦しくなって諦めることはない)。脚力をつけるためには、「追い込む」ことが大事である。ビルドアップ、インターバル、坂道を加えた走り。このようなものを週に2度、3度入れ、距離を走るLSDやジョギングを組み合わせ、そのように工夫して走ることで夢描くような形で完走出来る。この本は説得力ある。数多くある類書の中でもお勧め。
  • 40才からのフルマラソン完走 ~中高年のマラソン入門
    - なんと技術書で有名な技術評論社からのマラソン本。こちらは40歳以上の初心者ランナーに向けた本。書かれている内容は基本的なことが多く、ほかの本で書かれている内容とほぼ同じ。ただ、こちらは無理なく、数年かけてでもゆっくりと完走を目指すことをゴールとしているので、とにかく「無理なく」と「モチベーション維持」をテーマにしている。40歳以上からでも大丈夫ということをとにかく刷り込む (^^;;; 本。悪くないけど、私には物足りない(読む前からわかっていたので、悪口ではない)。

どれも似たような内容だったりするのだけれど、だからこそそこで繰り返し述べられていることは有効なことなのだろう。あとは実践あるのみ(何度この言葉を使ったことか)。

2010年10月17日日曜日

ドクター・ショッピング―なぜ次々と医者を変えるのか



余命半年 満ち足りた人生の終わり方」の中でも紹介されているが、自らが納得出来ない診断が下された場合に患者が行ってしまうのが、「ドクターショッピング」と言われる行為。「この医者は信用出来ない」、「もっときちんと診て欲しい」、「ほかの治療法があるはずだ」。そう思い、次の病院、ほかの医者を探し続ける。

セカンドオピニオンを得るという行為は重要だし、納得出来るまで診断や治療法を探すのも良いことだが、これが逆に患者を不幸にすることになってはならない。

本書はドクターショッピングに至る経緯や背景、原因となる医療現場の現状や患者側の問題点を解説している。主に、専門に特化しすぎるあまりほかの可能性を見れない医師、検査結果に固執しすぎて患者から出されるほかの情報を見ない医師、自分の言葉で語ることが出来ずにある症状ばかりに執着する患者。検査をすればするだけ収入になるという医療システムの問題点も浮き彫りにされる。

総合内科という診療科はその1つの解決策である。筆者はさらに身体的な問題点だけを診療するという考えから、患者が実際困っているのならば、それを解決するまで対応するという、心身医療を提案する。その意味で、心療内科が果たす役割が大きいとも言う。

本書の中で、パニック障害が例として何度か登場する。ドクターショッピングにはならなかったが、私にも思いたることがある。

高校の頃、試験になるたびに息苦しくなり、呼吸が止まるのではないかという強迫観念に襲われた。肺か心臓が悪いのではないかと思い、一度医者に行ったことがあったのだが、そこで出されたのは向精神薬。自分で薬の種類を調べて、そうとわかってからはもう医者には行かなくなった。それでも姉に「ちょっと今から寝るけど、途中で呼吸が止まっていないか見ていてくれ」とお願いしたりした。今考えると、これは立派な精神疾患だ。向精神薬を出すくらいだったら、もうちょっとちゃんと診断と治療をしてくれれば良かったのにと思うものの、当時は心療内科などは多分無かったのではないかと思う。少なくとも、私が行っていた病院には無かった。

実はこの話にはオチがある。その後、大学に入学した後のある定期試験の最中、夜中に急に胸が痛くなった。呼吸も苦しく、まともに息が出来ない。試験中だったが、あまりの苦しさに朝起きてから前と同じ病院に。医者は聴診器を胸に当て私の話を聞くと、またもや向精神薬を処方。今度ばかりは明らかに肉体的にも苦しいので、バカにすんなよと思いながらも、試験中だったため、ほかの病院に行くこともせず、どうにかやり過ごす。試験が終わった後もまったく治る気配が無いので、別の病院に。レントゲン写真をとったらすぐに入院となった。病名は自然気胸。聴診器をあてただけでもわかる状態だったようで、前の病院のいい加減さが良くわかる。これなど、本書でも書かれている医療機関側の問題、以前の病歴などをもとにした思い込みで診断してしまった例であろう。このような例が多くあると、勢い患者に医療不信を植えつけ、ドクターショッピングに向かわせることになろう。

現在の医療システムの課題と患者側の心得を知ることが出来る良書。

2010年10月5日火曜日

癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~

前立腺がんを告知されてからの経緯を日本将棋連盟会長である米長邦雄氏がまとめた1冊。すでにウェブ上にある「癌ノート」を元に専門医の補足説明がつけられている。



いわゆる闘病記というカテゴリに入れられるのかもしれないが、そのような深刻さはまったく感じさせない。もちろん、それは筆者が生還したという事実からの安心感から来るのかもしれないが、ほかにも前立腺がんが進行の遅いものであること、それに筆者自身の生来の陽気さにある。何度も出てくるが、闘病中であっても「笑い」を絶やさないようにしている筆者の姿勢がこの本を深刻さとは無縁なものとしている。

この本は純粋に読み物として面白い。軽いエッセイのようにも思える。これも筆者が書き慣れているからか。読み物として楽しめるが、中身は知っておいて損はない情報が詰まっている。

まず、ある程度の年齢が行ったら、PSA検査をしたほうが良い。筆者は60歳、いや50歳を超えたらと言っている。進行の遅い癌だから、自覚症状が出たときには手遅れ。PSA検査は血液検査だけで可能だ。

PSA検査の基礎 -前立腺がん早期発見のため-

あと、癌の可能性があるとわかってからも、検査まで、さらにその結果が出るまでに日数がかかることは知っておいたほうが良い。筆者の場合も、PSA検査で値が上昇してからも、しばらくは経過観察で、癌の疑いが強くなっても、生検を行うまでに3週間以上かかっている。また、骨への転移を検査するための骨シンチグラフィまでにさらに3週間。この間を不安に過ごすことになる。

良く著名人であったりすると特別に早く診察や検査をしてもらえるとう話を聞く。おそらく嘘ではないと思うが、少なくとも筆者ほどの著名人であってもそのようなことはなかったようなので、生半可な有名具合じゃダメなんだろう。一般人である我々は検査には途方も無い時間がかかること、たとえ癌の検査であっても、特別視されない可能性があることは理解しておいたほうが良い(* 進行の遅い前立腺がんだったからという可能性はあると思う)。

セカンドオピニオンの重要性や医者を知人に持つことの安心感なども筆者の実体験を読むとよく分かる。

本書、というよりも筆者の体験で参考になるもう1つの重要なポイントは、気になることはしっかりと調べ、しっかりと聞くということだ。これは前回レビューを書いた「余命半年 満ち足りた人生の終わり方」の中でも言われているのだが、医者を尊重しつつ、でもバランス良く疑い、そして自分で調べ、結論を出すということだ。

前立腺というのはご存知のとおり、性機能を司るものだ。そのため筆者にとって優先度が高かったのが、性機能が失われないか。普通、生死に関わる問題であった場合、そちらを優先させてしまい、生きながらえたあとの自分の命の質、すまりQoL (Quality of Life) まで考えが回らないということもあるだろう。特に、ある年齢まで達している場合、もういい加減そんなのは卒業してと周りにたしなめられないとも限らない。だが、自分にとって優先度が高いものは高い、簡単には諦めたくない、というものはとことん拘るべきだ。筆者のあくなき可能性の追求は見習うべきものだろう。筆者は結果、全摘出を勧められていたにも関わらず、高線量組織内照射(HDR)という放射線治療を選択することになる。

本書では告知から検査、そして治療までを解説し、終了しているが、ウェブの「癌ノート」はまだ更新が続けられている。このブログを書くために、最近の様子を読んでみたが、PSA値が若干あがっているようで、「私もいずれは再発すると思っています」と書いている。ただ、「しかしそれは90才を越えた頃でしょう。ですから私は97才以降の自分がとても心配なのです」とも。相変わらず、どこまでが本気でどこまでが冗談かがわからない。
私は性とは体力ではなく、年令でもなく、氣力でもなく、欲望でもないと思うとります。それはなんなんでしょう。この世を去るまでモテる法。これについて語り合う会を立ち上げたい。あっちもこっちも立ち上げたい。人生は楽しいです。
 燃える生命、これが最後かもと思う心を何かが突き動かしてくれるような氣がします。

癌ノート」 その44(2010年5月9日記)勇氣を から

これは本心だろう。素敵な生き方だ。見習いたい。

蛇足: Twitterもやっているようだ。これまた素敵。http://twitter.com/yonenagakunio

2010年10月4日月曜日

余命半年 満ち足りた人生の終わり方



難治がんと闘う -大阪府立成人病センターの五十年」でも書いたが、死へのカウントダウンはこの世に生を受けたときから始まっている。そのカウントダウンを自らの問題として考えなければならなくなるのが、余命宣告を受けたときだ。

この本は「緩和医療」と「死の瞬間への準備」について書かれた本だ。結論から先に言ってしまおう。この本は読んだ本が良い。この本でなくとも、死の瞬間の現実とそこに至るまで自らが考えることを知る本があるのならば、それでも良い。

ドラマのように最期に愛するものたちに別れを告げて旅立っていく。そのような終わりはまずない。それを知らされる。どんなに穏やかな死であったとしても、最期の瞬間は昏睡状態であり、その瞬間がいつ来るかは医師も家族も本人もわからない。

自分の余命が月単位であったことがわかった場合、どのような選択をとるかは本人の意思次第である。だが、その時に果たして冷静に適切な選択をすることが出来るか。選択肢を誤った場合、それは取り返しの付かないことになる。

末期ガンの場合、抗癌剤の治療は確実に本人の体力を奪い、そして自由を奪う。本来であったならば家族と最後の旅行に出かけられたり、自分の人生をゆっくりと振り返る余裕がまだあったかもしれない。だが、積極的治療を行うことを選択した場合、もう手段がなく終末治療に移行しなければならないとわかったときには、そのようなことはできないくらいに体力が落ちていることが多い。

逆もある。まだ大幅な延命や根治の可能性があり積極的治療を行うことを考えるべきなのに、それを放棄してしまう。

男性は男性ホルモン、いや遺伝的な要素というほうが良いかもしれないが、積極的治療を最後まで試みる傾向が強いという。それはわかる。おそらく私もそれを試みてしまうかもしれない。だが、果たして、もはや身動きが出来なくなってしまった最後の数週間になったときに、自分の人生の最後の瞬間として正しいことをしたと思えるだろうか。

このようなことを本書は考えさせてくれる。

本書でも書いてあるように、末期がんによって体の自由を奪われるペースは初めなだらかながらも、ある時を境に一気に加速する。積極的治療から緩和医療を中心とした終末治療に移行するタイミングを決めるのが本当に難しい。そのときには十分な時間はもうないかもしれない。また、このような話は出来れば考えたくない。

だが、だからこそ、元気な今読むほうが良い。

誰にも訪れる死。その瞬間の現実を知り、そして医療の現状を知り、普段から自分の考えを整理しておく。

本書はそのきっかけになるだろう。

2010年9月30日木曜日

いつもと同じという変化 - Keith Jarrett / Gary Peacock / Jack Dejohnette Concert

最初にKeith Jarrettを聴いたのは高校のころ。もう30年近く経ったことになる。貧乏高校生の私はもちろんレコードでしか聴くことが出来なかった。大学生になったころ、KeithはChick Koreaと一緒にモーツアルトを弾いていて、確かこれが彼のライブを見た最初だったろう。バイト代でチケットを買ったのか、友人が買ってくれたのか覚えていない。そういえば、彼は一緒にコンサートに行った彼は元気だろうか。

その後、ソロもトリオも何度も聴く機会に恵まれ、いつしか多いときは毎年、そうでなくても数年に1回は彼のピアノを聴くのが恒例となっていた。このブログでも2008年のソロコンサートの感想を書いてある。ソロとトリオを交互にやって、それで毎年来日していたのはいつのころの話だっけ。

今回の演奏は果てしなく優しく、そして繊細で、いつも聴いていた彼のピアノがいつもと同じように流れてくるものだった。おそらく本当はもっと激しい彼もいた。だけど、今そこで弾いている彼の姿から出てくる音はあらかじめ決められていた彼の音。約束された世界。

年齢による衰えもあってそうなってしまっているのかもしれなくて、それはそれで悲しいことだけれど、そんなことは誰も気にしないほど、美しく、そして楽しい演奏だった。

ジャズで様式美っていうのは変なことだと思う。特に、弾く曲もその日その時に決めると言われているKeithに対しては失礼なことかもしれない。だけど、今回の演奏はすべてアンコール最後のOnce Upon A Timeにつながるために予定されていたもの。そう思わせるくらい完成された演奏だった。

うつむきながら静かに歩きそしてピアノの前に。客席の緊張。挨拶の際に柔軟体操かと思うくらいに前にだらんと垂らす手。祈るように、そして自分に言い聞かせるように、胸の前で合わせる掌。あぁ、すべてのしぐさが決められたもののよう。

今回が最後のトリオの演奏だという話もあるようだが、大丈夫。いつでもあなたに逢える気がする。

セットリスト / 9月29日 Bunkamuraオーチャードホール
1st
  • Broadway Blues
  • The Blessing
  • I Fall In Love Too Easily
  • Tonight
  • Some Day My Prince Will Come
2nd
  • Things Ain't What They Used To Be
  • You Won't Forget Me
  • G-Blues
  • Smoke Gets In Your Eyes
encore
  • Straight, No Chaser
  • Once Upon A Time

2010年9月20日月曜日

難治がんと闘う -大阪府立成人病センターの五十年

昨年、NHKで放送された「立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」を見た。この中で立花隆氏は「転移がんには抗癌剤はほとんど効かない。QOL (Quality of Life) を大きく下げてまで延命したいと思わない」と言う。

その後、ひょうんなことから「現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療」というブログを知る。このブログのオーナーの梅澤充医師は「間違いだらけの抗ガン剤治療―極少量の抗ガン剤と免疫力で長生きできる。」という書籍の著者でもあり、抗癌剤に否定的で知られている。氏の主張には賛否両論あるようであるが、立花隆氏の番組での独白と梅澤医師のブログでの主張には同意できる部分も多い。すなわち、5年生存率という数字が一人歩きしていないか。果たして、それにより失うものは何か。また、5年を経過したあとの患者の生はどうなるのか。

この「難治がんと闘う―大阪府立成人病センターの五十年」では、大阪府立成人病センターの50年以上のがん対策の取り組みが紹介されている。がんの中でも難治がんと言われる一昔前には不治の病と言われていたがんも今では早期発見されれば治癒も期待出来るようになった。内視鏡治療、放射線治療、外科的手術、抗癌剤などを組み合わせ、さらには遺伝子を解析することによるオーダーメイド治療まで。

中でも、総合的ながん対策には統計的なデータが必要であるということで行っている地域がん登録事業は興味深かった。大阪府においてどのような種類のがん患者が多いのかを過去にさかのぼって知ることが出来、さらには治療後にそのがん患者がどのように生活しているか、もしくは不幸にも死に至ったかを知ることが出来る。たとえば、これにより胃がんの5年生存率があがったのは、必ずしも治療が進歩したり、早期発見が進んだというだけではなく、そもそも胃がん患者が減ってきたということがわかる。

医師たちの患者を救いたいという思いが詰まった書籍ではあるが、それでも、5年生存率という数字が出るたびに、5年生存率があがったというその薬は、その治療法は、では5年生存率をいくらあげたのだろうか、その患者は何年延命したのだろうか、それにより失われたであろうQOLに見合うだけのものだったのだろうか、と思い巡らせてしまう。

どんなでも生きていたい、生きていてい欲しいという気持ちはあり、それは最大限に尊重する。だが、どのような生を全うしたいかというのは、人間すべてに与えられた権利であるはずだ。がんになったときに、きちんとその判断を行うことが出来るような情報と環境を提供することが家族や医療機関に求められることだろう。

2010年8月18日水曜日

シャッフル

普段、iPhoneで音楽を聴いているのだが、最近はシャッフルして聴いている。プレイリストを作るわけでもなく、iPhoneに入っている曲を全曲そのままシャッフルで再生して聴いている。iPhoneの曲はたまに入れ替えるので、ただでさえ聴くたびに新鮮なのだが、そこに順不同の再生だ。

「この曲の後にこれか?!」
「んー、この組み合わせも良いかも」
などなど、普段気付かなかったような曲の魅力に気づくことも多い。

なんと言っても次の曲の予測が付かないところが良い。目隠しされて愛撫されるような感じか。いや知らないけど。

聴きなれた曲もシャッフルで聴けば新鮮だ。倦怠期を迎えたカップルが刺激を求めて普段と違う順序で試してみるような感じか。いや知らないけど。

実はこのシャッフルでの再生はどっかの誰かが言っていたことを試してみたまでだ。ボケ防止の本だったか、脳の活性化の本だったか、いやこの2つは結局同じだけど、いずれにしろ、その時はピンと来なかった。ちょっとしたはずみでやってみて気に入っている最近のマイブーム(死語?)。しばらく続けてみようっと。

2010年8月14日土曜日

明日死ぬとわかっていて今日一日過ごすのと
知らずにいつもと同じように過ごし明日死ぬのと

どちらが幸せだろう。

余命宣告されるということは、それを受け入れるということは、きっとこういうことだ。

一度、治療法が無い病気で1年にも満たない余命宣告を受けた人は、きっと適切な治療をすれば50%程度は5年生存率がある病気の人などひどく羨ましく思うだろう。

人間いつかは死ぬ。生まれてきてから、死ぬというゴールに向かって生きているという不条理な状況だ。かと言って、常に生きる意味を考えているかというとそんなことはない。日々の忙しさにかまけて、本当にやりたいことやろうと思っていることに手をつけられなかったり、ついつい楽な方に逃げてばかりいたり。

死は隣り合わせ。たとえ、病気で余命宣告をうけていなくてもいつ死ぬかわからない。

Twitterで「死」のことをたまに書いている時期があった。別に死にたいとか思ったわけでもなく、いや逆にそれを恐れているがために、死を意識して書いていた。「こんなことを書くと、心配するでしょ」と言われたこともあるし、もし原因不明の死を遂げた場合に自殺と疑われ生命保険などで揉めるのも嫌だったので、それ以降はほとんど書いていない。だが、寝るときに死のことを考え、恐ろしくなり目が覚めてしまうこともたびたびだ。

しかし、考えてみると、夜寝るときに人は次の日に起きれる保証はどれほどあるだろう。死とはそのようなものか。寝るのを怖がらないように、いつ死ぬかわからない状況でも生きることを怖がらない。日中、街を歩いていて、急に通り魔にあったり、自動車事故に巻き込まれて死んでしまうこともあるだろう。

余命宣告の場合を考えてみても、平均寿命から計算しさえすれば、誰でも余命宣告をうけているようなものだ。僕らはまだそれが20年や30年、いや若い人ならばもっとあるから、あまり意識しない。

だが、これが何年より短くなったら意識するのだろう。10年、5年? たぶん、漠然と5年後に死ぬかもしれませんと言われただけだったら、一瞬は怖くなるかもしれないが、おそらく次の日には忘れるだろう。病気の場合の余命宣告の場合は、確実にそれが足音を立てて近づいてくるからだ。医学書に書いてあるとおり、医者に言われたように、次の段階の症状が自分にもあらわれる。

あぁ、話がまとまらない。

1年も生きられない可能性があった人が、5年生存が可能とわかるだけでそれは計り知れない希望になる。ならば、はじめから、自分があと5年しか生きられないとしたら、3年しか生きられないとしたら、と考えてみたら良いのではないだろうか。

死ぬときに後悔すること25―1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いた という本がある。まだ読んでいない。だが、最期にあれがしたかった、これもしたかったと後悔はしたくない。また、老いては出来ないようなこともあるだろう。ビジネス的で嫌な響きだが、To Doリストを作り、いつかできるだろうではなく、今やろう。

もう1つ考えることがある。この人とはこれが最後かもしれないと。

「いってらっしゃい」と送り出した彼の姿をその後見れないとしたら。
彼にかけた最後の言葉が、喧嘩していたこともあって、ひどい言葉だったとしたら。
最後だとわかっていたなら - Tommow Never Comes という本を是非読んで欲しい。人に対する対応が変わるはずだ。



いつか人間は死を迎える。悔しいし、怖いが、それは誰も逃れようがない。
友人や知人の中にはそれをすでに自然に受け入れられるように見える人もいる。だが、僕はまだまだだ。

大学のころに朝日ジャーナルに連載されていてリアルタイムで読んでいた千葉敦子さんの「「死への準備」日記」。彼女のように強く、最後まで生をまっとうする生き方をしたい。心の成長もTo Doリストに加えておかなければ。



過去のブログ記事を読み返してみたら、柳美里 命四部作 - 魂、生、声 とかでも同じことを言っている。やれやれ。

2010年7月11日日曜日

Visionなき世界

個人や組織のゴールを考えるときに良く行うやり方として、VisionからMission、そしてObjectivesとAction Itemsに落としていく方法がある。

VisionとMissionは違いが分かりにくいし、その区別や使い分けも人によって違うことがある。

私は、Visionはどういうものを創りあげたいと思っているか、どういう世界や社会、または会社にしたいと思っているかを表したものだと思っている。夢と共通する部分もあるかもしれない。

Missionはそれを実現するために、あなたやあなたの組織が行うべきことを表したものだ。「使命」という訳語がぴったりくるかもしれない。

ObjectivesやAction Itemsはそれを実際に遂行可能な単位に落としたものだ。

Visionは出来るだけ、その世界観が分かるようにするのが良い。絵にしてみたり、映像にしてみたりするのも良い。Appleが1987年にKnowledge Navigatorというコンセプトをぶちあげたときにもビデオを用意した。


残念ながら見つからないのだが、Microsoftが2001年に.NETを発表した際の一連のビデオも秀逸だった。Tablet PCやWindowsベースのMobile、どこでもつながるネットワーク環境、今で言うARなどが連携した世界が映し出されていた。

これらのような世界を実現するために、Appleはこのようなものを研究します、Microsoftはこのような技術を開発します、というのがMissionだ。.NET FrameworkやVisual Studio.NETというのがObjectivesやAction Planになる。

繰り返しになるが、このようなVision、Mission、Objectives/Action Planの考え方は人によってそれぞれだし、AppleやMicrosoftも私が説明したように使い分けていないかもしれない。

重要なのは言葉ではなく、そのようなBig Pictureを持っているかだ。

今日は参議院議員選挙だ。各党のマニフェストなどを見ていても、どうもこのVisionが伝わってこない。

税制、財政、外国人参政権、少子化対策など、個別に論じている。だが、それらが実現出来た場合に、どのような日本になっているのか、それを想像しづらい。

VisionにはTimelineを付けることが大事だ。つまり、「いつ」までにそれを実現しようとしているのか。

2050年(これは別に2030年でも2020年でも良い)に日本はどうなっているのか?

たとえば、外国人参政権を認めるならば、それにより2050年に日本には移民がどの程度いることになるのか。法人税が下げられるならば、外国からの企業の参入も増えるだろうし、少子化対策が進めば日本人の人口減少も歯止めがかかることになるだろう。ボトムアップで考えても良いが、本来はこれらはトップダウンもしくはBig Pictureから落としこんでいうほうが良い。つまり、2050年の人々の暮らしをこうしたいというところから、それを実現するためには各政策がどうあるべきかを論じる。

今日の選挙では限られた情報からでも、各政党が考えているVisionを想像し、それを支持できるかを判断基準にして一票を投じてみたい。

2010年7月9日金曜日

年月

小さい子供を見ているとその成長のスピードに驚かされる。月単位でもびっくりするのだが、年単位になると、これが本当に同一の個体かと思わされるほど成長している。

振り返って自分を見てみると、果たして、ここ1年、いや3年で自分はどう変わったのだろうと思わずにはいられない。

3年前に亡くなった恩人の墓参りに行ったのは先週の土曜日。

そして、今日はその恩人の命日。
恩人に感謝。生かされていることに感謝。まわりの皆に感謝。

2010年5月6日木曜日

六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?

ゴールデンウィーク中の5/4に六本木クロッシング2010に行ってきた。六本木クロッシングとは、「日本のアートシーンの“明日”を見渡すべく、多様なジャンルのアーティストやクリエイターを紹介する(森美術館のサイトより)」3年に1回開催される展示会だ。

参照: 3年前の六本木クロッシング2007の時の感想

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3年前に比べると、正直、今回のほうが感動が薄かった。アナログレコードプレイヤーに連動させてオブジェ全体からサウンドを発する展示があったのだが、この隣接する部屋に別の音がテーマの展示があった。後者のほうが小さい繊細な音を使用していたのだが、当然、前者の展示によって打ち消されてしまう。なんとも残念だった。

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あと、写真の展示では照明の映り込みもすごい気になった。

3年前の展示で「吉村芳生氏のドローイング新聞(ある日の新聞を鉛筆で克明に描写-再現というほうが適切か-したもの)」に目を奪われたのだが、今回も同じようにCDジャケットを克明に手描きで再現し、楽曲も自分の肉声で再現(こっちは再現とは言えない。自分の肉声で解釈というのが良いか)したものがあった。なかなか面白い。

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ちなみに、今年初めにCyber Arts Japan(サイバーアーツジャパン - アルスエレクトロニカの30年)という展示会を東京現代美術館で見てきたが、個人的にはこっちのほうが面白かった。

六本木クロッシングは3年後に期待。

2010年5月5日水曜日

最近行ったライブコンサート(2010年1月から4月)

Twitterのほうで書くことが多くなったからという理由だけではないと思うのだけど、行ったライブコンサートや見た映画や展示会などのことを書かなくなってしまった。自分の記録としても困るので、今年の4月までに行ったライブについてまとめておく。

Norah Jones@赤坂BLITZ on January 20th

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CDを買って当選した一夜限りのスペシャルライブ。1時間ちょっとの短い時間だったが、Norahは相変わらず可愛くて、バックのクオリティも素晴らしく高いものだった。残念だったのは、招待客が多かったみたいで、客のノリが今ひとつ。オールスタンディングだったにも関わらず、腕組みしたまま仁王立ちして聴いてどうする。

一夜限りのスペシャル・ライブ開催&レポ-ト掲載!」に写真あり。

Jeff Beck来日公演@東京国際フォーラム on April 13th

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Jeff Beckは昨年のEric Claptonとの共演コンサートに行って、年齢を感じさせない驚異的なプレイに愕然としたのだけれど、今回は昨年以上の出来だった。ベースの可愛いTal Wilkenfeldがいなくなってしまったというのを聞いてショックを受けていたのだが、今回のベース(これも女性)のRhonda Smithも素晴らしかった。可愛らしいという感じでは到底無いのだけれど、ボーカルもこなして迫力のあるベースはさすが。Jaco Pastoriusを思わせるようなハーモニクスで始まるベースソロもあったりで、世界のレベルは高いなと思った。ちなみに、検索して知ったんだけど、トヨタ問題で米国の下院委員会の公聴会で証言にたったRhonda Smithさんは同姓同名の違う人 ;-)。

カナダ出身のベーシスト、ロンダ・スミスは、ジャコ・パストリアスとスタンリー・クラークを幼少時のアイドルとし、モントリオールのMcGill Universityでジャズを学び、様々なカナダのアーチストと共演。ドイツのミュージック・コンヴェンションにてシーラEと会うチャンスがあり、あのPrinceの新しいバンドのオーディションを受けたところ、気に入られ、その日にアルバム『Emancipation』のベース・パートを録音。その後もアルバム・レコーディング、ツアー、New Power Generationへの参加などPrinceのファースト・コール・ベーシストとして彼のサウンドを支える重要な役割を担いました。

また、他にもChaka Khan, Beyonce, T. I., Erykah Badu, Patti Austin, Patrice Rushen, Brenda Russell, Lee Ritenour, Larry Graham, Patti Labelle, Little Richard, Justin Timberlake, Najee, Candy Dulfer, Kirk Whalum and George Clintonなど多くのアーチストと共演する、まさにファースト・レディ・オブ・ベースというべき存在です。

http://www.hmv.co.jp/news/article/1002230069/

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Jeffのギターテクニックの凄まじさは当たり前だけど、それ以上にギターを楽しんで弾いている感じが伝わってくる。今まで聴いた中で一番、ギターで「歌っている」というふうに感じた。多少リズムの乱れなどあったみたいだけど、まったく問題なし。実は、新作"Emotion and Commotion"は聞かないでライブには行ったのだけれど、それでもその新作からの楽曲にもすぐに楽しめてしまえるほど。

今年で66歳だったかと思うが、彼と同じ時代に生きていられる喜びを感じた。

G: Jeff Beck
B: Rhonda Smith
D: Narada Michael Walden
K: Jason Rebello

原田真二@六本木スイートベイジル(STB139)on April 8th

YouTubeで原田真二の昔のビデオを見たり楽曲を聴いたりして、Twitterで騒いでいたら、フォロワーの人から最近でもライブがすごい盛り上がっていることや近々六本木スイートベイジルでライブがあることを教えてもらい、勢いで予約して行ってきた。

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開場前にSTB139に来てみると、私と同年齢かもう少し年配の女性の方々ですでに列が出来ている (^^;;; 順番を待って会場内に案内されると、まだステージの前のあたりでも席はとれそうだったが、さすがに先程の年配の女性の方々の間で聴く勇気はなく、1段高いステージ横の席をとる。

ライブは最初からのりのり。往年のヒット曲を中心に、最近の曲(ほとんど知らない)、どっかの学校のために書いた校歌(意外に良かった)などなど。「タイムトラベラー」を会場全員に歌わせるなど、エンターテイメントとしても楽しめる。昔のニューミュージックとかフォークの歌手ばりにMCがちょっと長いのには辟易とした(だけど、一緒に行った友人は楽しめたと言っていた)のだけれど、全体としてはあのサービス精神は流石。昔のように反骨な感じがあまりしなかったのが残念だけど、逆に等身大のアーティストとして身近に感じられた。

ライブの後にCDを買ったらサインしてもらえるというので、サインまでしてもらってしまった。なんてミーハー。

IMG_3694.JPG

そういえば、ゴールデンウィーク中にどっかでフリーライブをやっていたんだった。しまった、行くの忘れた。

番外編

昨年の10月にはサンフランシスコのYoshi'sでDavid Sanbornのライブにも行っていた。

昨年12月のロンドンでは、"We Will Rock You"のミュージカルにも行った。そういやロンドンではBritish Music Experience (The O2 bubble)にも行ったし、ちょうどやっていたMichael ackson: The Official Exhibitionにも行けた。あぁ、ロンドンは良かった。また行きたい。

2010年4月19日月曜日

アップル、グーグル、マイクロソフト クラウド、携帯端末戦争のゆくえ

この種の書籍のレビューは自分の仕事と関係が深いこともあって、なかなかやりにくい。実際に書けないことも多い。歯切れがいつもにも増して悪いと思ったら、その所為だと思って欲しい。

アップル、グーグル、マイクロソフト クラウド、携帯端末戦争のゆくえ (光文社新書)

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iPad VS. キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏 (brain on the entertainment Books)
ウェブ大変化 パワーシフトの始まり~クラウドだけでは語れない来たるべき未来 (KINDAI E&S BOOK)
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ネット帝国主義と日本の敗北―搾取されるカネと文化 (幻冬舎新書)
by G-Tools

本書は「クラウド」という、その業界の真っ只中にいる人でさえ説明しにくく、もしかしたら単一の定義さえ無いのではないという概念をわかりやすく解説するものだ。類書は数あれど、解説の切り口は端末側においているのは面白い。このほうがそれこそ「雲をつかむような」話を自分の手元にあるデバイスと関連付けて考えられるので、理解はしやすいだろう。

クラウドのベンダーとして、グーグルとマイクロソフトが入るのは至極当たり前であるが、アップルをそれに並べて評価するところも新しい。著者いわく、課金システムとアプリケーション配信プラットフォームであるiTunesを抑えているアップルはクラウドという言葉さえ使わずに、実質的なクラウドでの勝者となる可能性を秘めていると言う。現在のiTunesの課金やアプリケーション配信がそこまで優れているかは別にして、確かにクラウド上でサービスを組み立てるに際して、課金は重要なビルディブロックだ。だからこそ、どこも「*** マーケット」を確立する。

アマゾンが入っていないのは、本書がPaaS (Platform as a Service) ベンダーを取り上げる方針をとっているため。ちなみにクラウドは、IaaS (Infrastructure as a Service)、PaaS (Platform as a Service)、SaaS (Software as a Service) に分類され、現在のアマゾンはこのうちIaaSを提供している。

切り口は面白いし、非情にわかりやすく書いているので、短時間で読める。ただ、内情がわかっているものからすると、少し事実誤認がある(それを書けないのももどかしいのだが)。自分の知らない部分でも間違っているところがないかが気になってしまう。また、ややカジュアル過ぎる気がする文体も好みが分かれるかもしれない。また、すでにクラウドなどを知っている人にも物足りない。業界外の人向きと考えた方が良い。

なお、本書は光文社からの献本だ。ありがとうございます。

2010年3月21日日曜日

自分をデフレ化しない方法

自分をデフレ化しない方法 (文春新書)

文藝春秋さんから送られてきた一冊。どういう基準で私に送ってきてくれたのかわからないのだが、文字中毒で特に好き嫌いのなく、読書についてはまったくの雑食である私としては素直に嬉しい。

まず、表紙にびっくり。書店にいても、最近は勝間さんの本をできるだけ見ないようにしていたので、改めて近距離で見ると、あまりの迫力にちょっと怖い。いや、かなり怖い。彼女といい、ほかにも売れっ子になって顔を表紙に入れまくっているほかの人たちといい、書籍の表紙に自分の顔を入れる人ってどういう気持なんだろう。1冊や2冊ならわからないでもないが、ここまで多くあると、出版社から押し切られただけではないんだろうなと思う。まぁ、私も自分のブログとかTwitterとかでしょっちゅう顔写真を変えたりして遊んでいるから他人のことをとやかくは言えないが。

本書の内容は彼女が管さんの国家戦略室に行った提言をわかりやすく説明したものだ。現在の景気低迷の原因であるとする彼女の説とそれを打破するための提案が書かれている。説明は基本いろいろなレポートや書籍などからのデータを元に行う。自然、引用などが多い。そのような書籍はほかにもあるのだが、どうにもなんだか気になってしまう。同じような内容を望むならば、専門書に成りきっていないし(当たり前。最初からそれを狙っていない)、大衆向けの解説書ならば、もっと優れた本がある。まぁ、これは好みの問題なので、彼女の語り口が好きならば、必ずしも悪い本ではないと思う。

ただ、「第2章 デフレ時代のサバイバル術16カ条」はいただけない。当たり前のことしか書いていないし、内容が薄い。これならば、マネー雑誌のほうがまだためになる。
  1. まずは収入の2割を貯める
  2. 蓄財は投資信託を活用する
  3. 住宅ローンは慎重に
  4. パソコンは買っても車は買うな
  5. 教育費は年収の10パーセントまで
  6. 290円弁当は本当にトクか
  7. 安いだけの服は買わない
  8. 究極の節約法はタバコ、酒をやめること
  9. 自分の会社の実力を知る
  10. 日常の仕事自体が自己研鑽につながる会社選びを
  11. 資格マニアになるな
  12. 低コストを生かした将来投資を
  13. どこでもよいから正社員就職する
  14. 結婚はリスクヘッジになる
  15. 結婚リテラシーの必要性
  16. カイゼン方式でストレス解消
それにしても、Amazonでの彼女の著作のコメント欄は面白い。批判するほうも支持する方も。こういう時って、どうしても批判する方が大勢になりがちだが、世の多くのカツマーの人たちにもっとガンバッテ欲しい。

私自身は以前2冊ほど彼女の著書を読み、それなりに考えさせられるものがあったのだが、なんか最近はもうお腹いっぱい。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

生きているだけで、愛。」に続いて、本谷有希子さんの小説を読んでみた。順番から言うと、こっちのほうが先の作品みたい。

あとがきで高橋源一郎氏が従来の劇作家の小説は舞台での戯曲をそのまま小説にしたのが多かったが、本谷作品は違うというようなことを書いていた。わからなくもなくはないが、私には、この小説はかなり戯曲を意識させるものに感じた。所詮、この世は現実世界も演劇のようなもの。現実においても人は演技をしているし、劇の世界でも生身の人間を見せる必要がある。寺山修司氏が言ったように。

この小説は不幸のエンターテイメントだ。不幸と悪意と憎悪、それらをミックスして、エンターテイメントのトッピングをしたような感じだ。はじめから、著者が劇団も主宰していることを知っていたのでバイアスがかかってしまっているかもしれないが、読みながらも脳内に現団員たちの演技している姿が浮かぶ。

読んだ後に何か大きなものが残るわけではないが、不幸のエンターテイメントを見た後の清涼感が残る。

こんな感想を持つのは私だけかもしれないが、みんな不幸を楽しんでいるところがあるはずだ。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

4062757419

関連商品
江利子と絶対〈本谷有希子文学大全集〉 (講談社文庫)
生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)
幸せ最高ありがとうマジで!
ぜつぼう
遭難、
by G-Tools

いや、本当の不幸は楽しめない。だからこそ、「悲しみの愛」。腑抜けの私はそれを見せれるまで強くならなければ。

2010年3月11日木曜日

人を褒めるときの言葉

他人を褒めるとき、特にその人の優秀さを称えるとき、「頭が良い」とか「頭の回転が速い」という言葉を使いたがる人がいる。特定の人というわけでもなく、一般的に誰でも使う言葉だ。

僕はこの言葉が嫌いだ。周りの優秀な人間を見るにつけ、自分の能力の低さに幻滅することが多く、だからこれらの言葉も敬遠するようになった。

その代わりに素敵だなと思ったのが「しなやか」という表現だ。

「あの人はしなやかだよね」

まだしっくりこない。だが、バレエのような柔軟な思考が思い浮かぶ。

あと、「スマート」という言葉も好きだ。

これは、"Work Hard" の代わりに "Work Smart" というほうが良いのではないかと知人に指摘を受けてから気に入っている。仕事だけでなく、人にも使いたい。

「あの人はスマートな人だよね」

言葉を考えるだけでは、そのような理想に近づくことは出来ない。頑張れ自分。

2010年3月2日火曜日

サヨナライツカ

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトにわかれる

私はきっと愛したことを思い出す
主人公豊の婚約者(後に妻となる)、光子の詩。中で何度も繰り返される、これがこの小説「サヨナライツカ」のテーマだ。

実際の詩はもう少し長い、最初は次のように始まる。
いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい
人間は生まれた瞬間から死に向かって生きている。死に向かう人間にとって、別れは常に必然だ。いつか別れがやってくる。いつかさよなら、サヨナライツカ。この言葉遊びのようなカタカナを冗談のようにリズミカルに口に出している光子の姿が目に浮かぶ。実際には、光子は小説の中ではほとんど登場しない。だが、実はこの光子がすべてを見通した上でこの言葉を口しているのではないか。彼女こそが永遠の愛に生きる夫との別れを意識し、それと背中合わせに生きているのではないかとさえ思う。

ちょうど先月、これが原作の映画が上映されていたので、ストーリーは知られているかもしれない。バンコクに駐在する豊は婚約者(光子)がいるにも関わらず、妖艶な女性、沓子に魅了される。結婚式が迫るなか、人目も気にせずに愛を育む。結婚式の日に別れが来ることを知りながらも。結婚式のために光子とその家族がやってくる日に、沓子は日本へと旅立つ。豊は愛に生きることを選ばない。25年後に二人は再開するが、その先にも別れが待っていた。

ストーリー自体は特にひねりも無い。起承転結があるわけでもない。だが、理屈でない愛の世界を描くには、ストーリーはこのくらいシンプルなほうが良い。辻仁成の語り口は、男視線であるかもしれないが、読むものを離さない。Amazonのレビューでも何人かが男の身勝手な行動というように書いていたが、沓子も身勝手な理由で豊を誘惑した。つまりは、始まりはいつも身勝手。恋愛小説に身勝手云々を言うこと自体野暮だろう。

小説の舞台が南国なのもまた魅力の一つ。日本人は日本人の血として南国に郷愁を抱くように生まれてきている。僕は南アジアは行ったことが無いのだが、それでも想像できる湿度、風の心地よさ。いつかバンコクに行ってみたい。

サヨナライツカ (幻冬舎文庫)

実は、この小説を読む前に映画を見た。これが本当にひどい出来だった。小説を読んでみてわかったのだが、ストーリーが違う。映画にするあたって、端折らなきゃいけない部分が出たというのならまだわかる。根本の、たとえば沓子が豊を誘う理由などが省略されていたり、光子がバンコクに来て、沓子に別れを迫るなど、まったく違うストーリーになっている。

映画のクオリティという面でもひどかった。25年後の豊(西島秀俊)と沓子(中山美穂)のメイクはどこのお笑いコントかと思ったし、航空会社のトップに上り詰めた豊を描くときのビジネスのシーンなどがあまりにも現実離れしているのにも失笑を禁じ得なかった。



だが、それでも南国の雰囲気は映画からも伝わってきたし、中山美穂は綺麗だった。こんなひどい出来の映画だったのに、エンディングで涙が出てしまったのは、きっと中山美穂が綺麗だったから。まぁ、年齢とともに涙もろくなっているというのもあるだろうけど。

小説のあとがきに辻仁成が書いている。
この小説によって、私は一人の女性と運命をともに歩き始めることになった。
そうか、彼にとっても運命的な作品だったのか。

正直、これを読むまで、いや、読んだ後でも、辻仁成という作家はあまり得意ではない。ナルシストの権現みたいな存在そのものを毛嫌いしている。決して、南果歩とか菅野美穂とか中山美穂とか女をとっかえひっかえしやがってとかと思っているわけではない。なんで、江國香織さんは作品のコラボをするんだろうとさえ思っていた。この小説でも、「好青年」というような言い方で豊を形容しているが、その美的センスは私とはずれているし、読んでいてやはり気持ち悪いと思うところもある。だが、この作品で多少イメージが変わるかもしれない。それほどインパクトがあった。
この小説を、愛に生き、愛に苦悩する全ての人々に捧げたい。
相変わらずキザなやつだ。エコーズのころ、オールナイトニッポンのDJをやっていたころと変わらないね。

2010年3月1日月曜日

生きているだけで、愛。

江國作品がある意味、予定調和で安心して読めるのだけれど、この「生きてるだけで、愛。」はその真逆だ。本谷有希子さんの作品は初めてだったので、まだ作風に慣れていないからかもしれないが、パンクなスピード感にのめり込みそうだ。なんと言ってもタイトルが良い。彼女には「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」という芥川賞候補作品もあるようだが、こっちのタイトルも素敵だ。まだ読んでいないが、たぶん遠くない将来に読むことになるだろう。

この「生きているだけで、愛。」はいわゆるメンヘラーの女主人公の極端な形での愛の表現、生の表現がテーマだ。メンヘラー主人公の行動パターンをすべてその病気の所為にしてしまっているようなところは、その病気への理解に疑問を感じてしまうところもあり、必ずしも好きではないのだけれど、それでもそのような背景を持たせることでエキセントリックな奇態を通じての愛から気づかされることも多い。いや、私は好きだ、こういう作品。こういう生き方。

ウオシュレットへの恐怖を理解してもらえないだけで絶望し、それを破壊し、せっかく始めたバイト先を飛び出す。どうやって世間と折り合いをつけようか。そんなでも楽をして生きることには怒りを覚え、最後まで理解を求める。

いや、本当、「生きているだけで、愛。」だよ。

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

4101371717

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ぬるい眠り

短編9編が集まった江國香織さんの短編集。最も古いものは89年作で最新のものでも03年。作品の中に登場する小物が少し古いのはそのせい。書かれた時期は違うけれど、どれを読んでもいつもの江國ワールドが広がっていて、安心して読むことが出来る。

「ラブ・ミー・テンダー」では長年連れ添った夫婦の他人には理解できないかもしれない愛が語られ、表題作「ぬるい眠い」では高校生と付き合いながらも前の彼を忘れられない女性が葬る愛が語られ、「放物線」では一時期を一緒に過ごした仲間との間の変わらぬものへの愛が語られ、「災難の顛末」では愛猫についたノミとの格闘を経てわかった自分への愛が語られ、「とろとろ」ではほかの男達と関係を持つことで強まる彼への愛が語られ、「夜と妻と洗剤」ではあるプロトコルで関係が保たれる夫婦の愛が語られ、「清水夫妻」では死という日常のイベントに参加し続けることで感じられる生きることへの愛が語られ、「ケイトウの赤、やなぎの緑」では不思議な人たちとの集まりの中から感じられる彼への愛が語られ、「奇妙な場所」では一年に一度の行われる家族イベントから感じられる日常への愛が語られる。愛に生きる人たちを語る江國ワールド。

「災難の顛末」ではある日自分の体にできた赤い斑点、それは愛猫のノミが原因だと後に判明する、との戦いが書かれる。主人公は、彼よりも、そしてその原因である愛猫よりも、自分の体が愛おしいという事実に気づく。ストーリーを簡単に書いてしまうとこんなものなのだが、このノミとの格闘を通じて、自分以外のものの価値に気づく部分の描写は戦慄とさせる。

「清水夫妻」は赤の他人の葬式に潜り込むことを趣味とする夫婦。その夫婦と一緒に葬式に参加するようになり、死を身近に感じることによって、生の魅力に気づく主人公。その前には現在進行形の自身の恋愛さえ色あせてしまう。「私もいつか死んだとき、愉しく生きたことをまわりの人たちに憶えていてほしいなと思う。だからそのためにも愉しく生きたいと。」主人公の言うこの言葉は私の考えと一緒。

「ケイトウの赤、やなぎの緑」は「きらきらひかる 」の十年後の話。「きらきらひかる」を読んでいない人は読んでからのほうが良いかも。

江國作品は良くも悪くも安心して、予定調和の世界が楽しめるのが良い。

ぬるい眠り (新潮文庫)

4101339236

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