2007年7月13日金曜日

恩人との別離

朝一のミーティングを終了し、メールチェックを終わらせた後、オフィスの外のベンチで一休み。眠気が襲ってくる中、ふと、なんで今ここにいるのだろうと考えてしまう。本当なら、彼の元に駆けつけたかった。

昨夜、日本との電話会議が続き、ベッドについたのが深夜3時。寝付きかけたころに思い出した。弔電の手配をしないと。定型の文面ではなく、自分で今の気持ちを伝える文章を考えた。永遠の眠りについた彼にせめて届きますように。

亡くなったのは私の元上司。

彼とは最初の会社で一緒だった。当初、私は直属の部下でなかった。それにも関わらず、何かにつけてかわいがってもらった。今思えば、かなり自信過剰で先鋭的だった若かりしころの私。VAX NotesというLotus Notesの原型にもなったといわれる情報共有システムで、自分のシグネチャーに「Never trust over thirty」だとか「TooMuchManagementNotEnoughLeadership」だとか書いていると、少しなまりのある声で「だめだよー、及川さん。こういうのは見る人は見ているからね。直接会ったことのない人に変に先入観与えると損するよ」って注意してくれたのも彼だ。

某自動車会社のシステムのアップグレードでトラブルが生じたときも、直接関係ないにも関わらず、週末にかけつけてくれたのも彼。別に直接トラブル処理を手伝ってくれるわけでもなかったが、なぜか彼がいるだけで心強かった。

その後、縁があって、上司部下の関係になり、保土ヶ谷のオフィスに二人して転勤となった。保土ヶ谷に移った当初、毎日のように飲んだ。仕事の話ももちろんだが、家族の話、学生時代の話などいろいろな話をした。

最近、私は学生や新社会人など若い人に話をする機会も多い。話の中で引用させてもらうのも、ほとんど彼の言葉だ。「他人の心の痛みがわからないと他人の上にはたてない」。他人の上にたつかどうかは別として、「他人の心の痛みをわかる」ようにするのを心がけているのも、彼から教わった教訓だ。ただ、この年齢になっても、心がけていても、実践はできていない。そんな私を見たら、彼は「だめだなー、及川さん」って苦笑しながら注意してくれるだろうか。

「仕事を選んじゃだめだ」と言われていたのが、しばらくしたら「及川さん、仕事は選ばないと」と言われるようになった。若い私はメッセージが一環していないと憤慨したが、それが私の成長に合わせて意図的に変えていたとわかるのはしばらくしてからだった。当時はまだコーチングのような手法も今ほど一般的ではなかったと思うのだが、彼は見事にそれを実践していた。

彼とほとんど二人三脚と言って良い状況で行っていた仕事が一段落ついたころ、そう、1992年ごろだろう、私はマイクロソフトに転職しようと思った。Windows 3.0が出たか、これから出るかという時代だ。DECから転職する人間がちらほら出ていて、私も成長著しい会社に憧れた。

今から考えるとめちゃくちゃなプロセスなのだが、なぜかきちんと彼に辞めることを告げてから、転職活動をしようと思い、先に辞表を提出した。びっくりした表情で、少し預からせてくれと言う。数日経って、彼の上司(つまり、私の上司の上司)と3人で面談があり、そこでWindows NTのAlpha版の開発で米国マイクロソフトに行かないかという。この時から私の人生は大きく変わった。今のプロフェッショナルとしての私があるのは彼のこのときのカウンターオファーのおかげだ。もちろん、私はDECに残り、Windows NTのAlpha版の開発に参加した。

このプロジェクトは必ずしも順調ではなかった。まだ20代だったリーダーの私は日本にいる彼やほかのマネージャに無理難題ばかりをお願いしていた。後から、彼に言われた。「及川さんの言うことももっともなんだけど、リーダーとしてはGiven Conditionの中で最高のパフォーマンスを発揮しないとダメなんだよ」。当時の私は必ずしも、この言葉を理解できなかったが、今ならばわかる。少し、彼に近づけたのだろうか。

その後、彼は私よりも先に会社を辞めることなり、その後しばらくして、私も会社を辞めた。辞めてからは数年に1度会うくらいだったが、そのたびに私の成長を喜んでくれ、そして仕事だけでなく、私生活にまでいろいろとアドバイスをくれた。

昨年、自分のキャリアについて悩んでいたとき、相談できる人は彼しか思い浮かばなかった。「お久しぶりです。実は会社を辞めようかと思っているのですが、相談にのってもらえませんか?」とメールした。「私で良ければいつでも」とリプライをもらった次の日に、「緊急入院することになりました。ちょっと重い病気みたいです」と他人事のようなメッセージが届く。同時に「いつかまた及川さんと一緒に仕事したいです」とも書かれていた。それ以来、音信不通に。

その後、結局、会社を辞め、現在の会社に転職したのだが、彼のことはずっと気になっていた。でも本当は逆に真実を知るのが怖かったのかもしれない。連絡が来ないのが良い状況のはずがない。

彼の近況を知ったのは、5月に入って。DECの同窓会にて、彼の元上司を見つけると私はすぐ彼の状況を聞いた。そこで知らされた。

すぐに見舞いに行くことを決めた。彼に近しい人3人で。痩せてはいたが、口調は変わらず、他人への気遣いも変わらず。もう残された時間が少ない人だとは信じられなかった。また来ます。そういってその日は帰った。

後日、お礼のメールをした。本当に伝えたかったこと。

<略>
先日は突然の訪問失礼いたしました。やはり会えて良かったです。

目の前にいらっしゃるとなかなか照れて言えないのですが、Xさんの部下でなくなってからも、いつもタイミングタイミングで私はXさんの言葉を思い出していました。私は大学時代に父を亡くしていますので、私の中では父代わりのようにXさんのことを思っていたところもあるのではないかと思います。「他人の心の痛みがわからなければ他人の上には立てない」とか「早く1千万円プレーヤーになれ」とか、Xさんには仕事の面だけでなく、人生の先輩として学ぶところが多く、単に会社の上司というだけでなく、本当に多くのことを教えていただきました。
<略>

普段、私は自分の業績をひけらかすことはほとんどしない。そもそも業績といえるようなものもない。だが、このメールでは直前にあったイベントが大成功だったこと、そこで私がゼネラルセッションの最後を締めたことなどを伝えた。成長した私を少しでも知ってもらいたくて。彼の言葉や考えが少しだけど、きちんと私が継承していることをわかって欲しくて。

彼から短い返事が来た。

新病棟/病室に移動しました。XX病棟/XXXX号室。個室です。
いつでもどうぞ。私ももっとお話ししたかったです。
xxxx …still alive…

それから10日くらい経ったころ、今度は1人でお見舞いに行った。すでに起きているのは辛いのか、寝たまま話をする。相談したかったこと、伝えたかったことを言葉を選びながら話した。彼もいろいろと親身になって答えてくれる。ふと気づくと、もう1時間を過ぎている。さすがにもう帰らないと。

帰り際、彼と握手をした。「また来ます」。「及川さん、本当にありがとうね」。彼は泣いていた。私も号泣してしまった。病室を出るのが辛かったが、「失礼します」と言って、病室を出た。これが思えば、彼との最後だった。

出張から帰国したら、真っ先にお見舞いに行く予定だった。それがお別れの式にも参加できないなんて。でも、彼ならきっと言うだろう「及川さん、無理しなくていいよ。別に急がないから、いつか来てください」。

彼に会えたら言うつもりだ。どんなに私が感謝しているか。本当は彼がいなくなり不安で仕方ないが、そんなそぶりを見せたら、きっと怒られてしまうだろう。

彼に言いたい。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。