2009年2月3日火曜日

走ることについて語るときに僕の語ること

誰かのブログに書いてあったか、Twitterでささやかれたか、良く覚えていないが、とにかく、誰かに影響されて買った1冊。

昨年、「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」を読んでから、にわかに運動に目覚め、ジムに通おうかと考えているのだが、まだ実現していない。まだ通い始めてもいないのに、新庄みたいに、「筋肉がつきすぎて、ジーンズが着れなくなると嫌だなぁ」とか言っていたら、「能書きは良いから、早く通いなさい」と友人には呆れられた。

それでも、昨年初冬に本社に出張したときには、どんな夜遅くまで残業した後でも、アルコールを少し飲んだ後でも、ほぼ毎晩ホテルのジムで1時間ほど汗を流した。別にダイエットしたかったわけでもなく、なんとなく運動をするという行為を試してみたかったのだ。

汗をだらだらと垂らしながら、サイクリングマシンを漕ぎ、ランニングマシンでも「今日は何マイルほど走ろう」などと考えながら走ったのだが、自分でも信じられないほど気持ちよかった。人間の脳というのは適度な運動を欲しているというのを実感できた。

村上春樹氏のこの本はとにかく「走る」ことについて書いてある。氏も本書の中で書いているように、このような話をすることで他人に走ることを勧めてはいない。誰に話すでもなく、でも話し続けている、いつもの氏の小説に出てくる主人公のように。

ストイックなこと。脳が命じるままに快楽を得ようとすること。この2つは矛盾すると思っていた。芸術家というのは、後者をするための特権を得た人達であり、またそれ以外のことが出来ない一種不幸な才能を得た幸福な人だと思っていた。だが、どうやら違うようだ。

ストイックなまでにある習慣を持つことは、実は脳も望むものであり、その習慣付けを阻害するのもまた脳である。つまり、アブサンを飲んで酔いつぶれ、恐怖新聞のように、命を削りながら作品を生み出すのもまた脳の快楽に従った人間の行為であり、ストイックな生活を心地よく思い、その中からファンタジーを生み出すのもまた、脳の快楽を満たすものではないだろうか。

脳生理学の話など、まったく知らないので、これ以上、脳の話なんかするつもりは無いが、昨年からの勉強術や仕事術の本で、あまりにもストイックなまでに生活パターンを維持する人達の教えに拒否反応があったのだが、この本を読んで、少しその考えを改めた。実際、自分が昨年のマウンテンビューのホテルで経験した2週間は非常に快感だったのだから。

上に書いたように、村上春樹氏はこの本で人に走ることを勧めるつもりが無いのだが、それでもおそらく多くの人がこの本に影響を受けて走り出すことだろう。それほど、ストイックなまでの彼の姿から、何かステキなものを感じるから。

走ることについて語るときに僕の語ること
走ることについて語るときに僕の語ること

ちなみに、この本を読んで、久しぶりに村上春樹氏の昔の本を読みなおしたくなった。

思い出したのだが、彼とは何かと重なるところが多い。早稲田大学出身(私も同じ大学出身)、国分寺にて店を始める(私の今住んでいるところも同じ中央線の近所)、千葉(確か、前原か薬園台)にて作家をスタート(私も同じ新京成線沿線に住んでいた)、ヤクルトスワローズファン(私も同じ)。だからなんだと言われると困るけれど。