私はいろいろなものに影響される傾向にあるのだけれど、この「命」も結構重く心の中に残った。四部作なので、あと三幕ほどあるのだけれど、読むタイミングを選ばないと。そう。タイミングを選ばないといけないはずだったのに、並行していくつかの仕事が走っていて、本を読む時間があまりないはずの今-一番タイミングの良くないはずの今!-、一気に残り三作を読んでしまった。良く考えると、今までも忙しい時に限って、いろいろと読んでいる。仕事も並行して何個か進めているのだが、読書まで並行だ。文学小説と同時にビジネス書も読んだりしている。やれやれ。
闘病中であった東氏が亡くなるまでが書かれているのがこの三作なのだが、読んでいて、大学生のころに父親を亡くしたことを思い出した。当時は告知が一般的でなかったので、本人には病名さえ伝えていなかった。自分の死ぬまでの時間がわかっていたなら、父は何を言い残しただろう(参照:「今、誰に逢いたいですか」)。この三作の中にも柳氏をはじめとして、東氏を看病する者たちがうそを突き通す場面が出てくるが、私の一年以上の父の看病のときにも、本当に役者になったように演じていた。本書の中でも、もしかしたら東氏は知っていたのではと振り返る場面があるが、私にも本当は父はすべてを知っていたのではないかと思われることがあった。時間が戻るなら、聞いてみたい。息子である私に何を言い残したかったですかと。
本書の中で柳氏は、週単位でしか生きられないとわかることはあまりにも残酷だ、精神が崩壊してしまうと、東氏に最後の病状は伝えていない。私はそもそも治癒の可能性がない状況で告知を受けられるだけの神経を持っているかどうか疑問なので、死が間近に迫ったときのことなど今は考えることもできない。キューブラーロスは著書「死ぬ瞬間」で死を許容するまでのステージを書いているが、果たしてすべての人がこのように許容することができるのか。
今年亡くなった私の元上司は告知を受けていて、自分で治療法を選択していた。私が最後に見舞いに行ったときには、「及川さん、2週間単位で今生きているんだ」と話していた(参照: 「恩人との別離」)。彼は少なくとも私の前では、死を許容しているように見えたが、彼の本当の心の中はわからない。
まとまりが無く恐縮だが、学生のころの愛読誌「朝日ジャーナル」で連載されていた千葉敦子氏の「死への準備」日記も急に思い出した。いろいろと共通して思うところは、生と真正面に向かい合うのは、結局、死が自分や自分に近しい人の目の前に迫ったときなのかもしれないということ。その意味では、今年は私は生を与える機会を与えてもらったことは感謝すべきだろう。
ちょっと考えることの多い夜。
クリスマスなのに。