2010年3月2日火曜日

サヨナライツカ

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトにわかれる

私はきっと愛したことを思い出す
主人公豊の婚約者(後に妻となる)、光子の詩。中で何度も繰り返される、これがこの小説「サヨナライツカ」のテーマだ。

実際の詩はもう少し長い、最初は次のように始まる。
いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい
人間は生まれた瞬間から死に向かって生きている。死に向かう人間にとって、別れは常に必然だ。いつか別れがやってくる。いつかさよなら、サヨナライツカ。この言葉遊びのようなカタカナを冗談のようにリズミカルに口に出している光子の姿が目に浮かぶ。実際には、光子は小説の中ではほとんど登場しない。だが、実はこの光子がすべてを見通した上でこの言葉を口しているのではないか。彼女こそが永遠の愛に生きる夫との別れを意識し、それと背中合わせに生きているのではないかとさえ思う。

ちょうど先月、これが原作の映画が上映されていたので、ストーリーは知られているかもしれない。バンコクに駐在する豊は婚約者(光子)がいるにも関わらず、妖艶な女性、沓子に魅了される。結婚式が迫るなか、人目も気にせずに愛を育む。結婚式の日に別れが来ることを知りながらも。結婚式のために光子とその家族がやってくる日に、沓子は日本へと旅立つ。豊は愛に生きることを選ばない。25年後に二人は再開するが、その先にも別れが待っていた。

ストーリー自体は特にひねりも無い。起承転結があるわけでもない。だが、理屈でない愛の世界を描くには、ストーリーはこのくらいシンプルなほうが良い。辻仁成の語り口は、男視線であるかもしれないが、読むものを離さない。Amazonのレビューでも何人かが男の身勝手な行動というように書いていたが、沓子も身勝手な理由で豊を誘惑した。つまりは、始まりはいつも身勝手。恋愛小説に身勝手云々を言うこと自体野暮だろう。

小説の舞台が南国なのもまた魅力の一つ。日本人は日本人の血として南国に郷愁を抱くように生まれてきている。僕は南アジアは行ったことが無いのだが、それでも想像できる湿度、風の心地よさ。いつかバンコクに行ってみたい。

サヨナライツカ (幻冬舎文庫)

実は、この小説を読む前に映画を見た。これが本当にひどい出来だった。小説を読んでみてわかったのだが、ストーリーが違う。映画にするあたって、端折らなきゃいけない部分が出たというのならまだわかる。根本の、たとえば沓子が豊を誘う理由などが省略されていたり、光子がバンコクに来て、沓子に別れを迫るなど、まったく違うストーリーになっている。

映画のクオリティという面でもひどかった。25年後の豊(西島秀俊)と沓子(中山美穂)のメイクはどこのお笑いコントかと思ったし、航空会社のトップに上り詰めた豊を描くときのビジネスのシーンなどがあまりにも現実離れしているのにも失笑を禁じ得なかった。



だが、それでも南国の雰囲気は映画からも伝わってきたし、中山美穂は綺麗だった。こんなひどい出来の映画だったのに、エンディングで涙が出てしまったのは、きっと中山美穂が綺麗だったから。まぁ、年齢とともに涙もろくなっているというのもあるだろうけど。

小説のあとがきに辻仁成が書いている。
この小説によって、私は一人の女性と運命をともに歩き始めることになった。
そうか、彼にとっても運命的な作品だったのか。

正直、これを読むまで、いや、読んだ後でも、辻仁成という作家はあまり得意ではない。ナルシストの権現みたいな存在そのものを毛嫌いしている。決して、南果歩とか菅野美穂とか中山美穂とか女をとっかえひっかえしやがってとかと思っているわけではない。なんで、江國香織さんは作品のコラボをするんだろうとさえ思っていた。この小説でも、「好青年」というような言い方で豊を形容しているが、その美的センスは私とはずれているし、読んでいてやはり気持ち悪いと思うところもある。だが、この作品で多少イメージが変わるかもしれない。それほどインパクトがあった。
この小説を、愛に生き、愛に苦悩する全ての人々に捧げたい。
相変わらずキザなやつだ。エコーズのころ、オールナイトニッポンのDJをやっていたころと変わらないね。