小此木啓吾氏の著作に「モラトリアム人間の時代」というものがある。私が中学生のころにベストセラーとなった書籍で、今となっては死語となってしまった感もある「モラトリアム人間」という言葉が流行したのもこのころだ。モラトリアム人間とは大学を卒業しても自分のやりたいことが見つからない、まだやることがあるなどを理由に就職しない人間などを指す。はてなキーワードではモラトリアムのことを「大事なことを引き延ばしに引き延ばして、やらない状態」としている。
私は大学を卒業するときから、また卒業してからも、ずっとこのモラトリアム状態であるように思うことが多い。幸いなことに、どんなことにも興味を持てる性格だったので、営業サポートをしろと言われれば、最初は少し戸惑うものの、すぐに興味を持ち、それなりに成果もあげれるようになった。自分でその時その時はやりがいを見出し、さらには将来像も描いて、それに向けての活動をするのであるが、なんかの折に着け、ふと「これが私の本当にやりたかったことか」、「自分という人間に社会が期待しているものは本当に今やっていることなのか」と考えてしまうことがある。
ここ最近の言葉で言うと、「自分探し」をはじめてしまうことがあるのだ。
自分探しが止まらないはそのような現象をまとめた書籍。
残念ながら書籍としては内容が少し薄いというか、現象をなぞっただけに見えるところも多いのだが、最近の現象を知ることができ、さらにはここしばらくの巷での「自分探し」の方向性を読み取ることができる。
「自分探し」はあくまでも自分中心であり、書籍の中で例としても出てくるテレビバラエティ「あいのり」でも相手よりも裸のままの自分を愛してくれる人を探す。また、自分を変えたいと思うのは昔からあることであるが、「自分探し」では環境を変えることで「自分を変える=(自分の気づいていない)本来の自分を探す」という方向に行くことが多い。自分中心に見えても実際には他者や環境に身をゆだねる。
本書では、ボランティアやエコロジーに始まり、自己啓発セミナーから人気ラーメン屋にいたるまで、すべてに「自分探し」の影響を見て取る。そこまで含めるのは行き過ぎではと思ったりもするが、言われてみると、気持ち悪いほどの共通点が見てとれる。
その共通点は「ポジティブシンキング」なのだが、私は「洗脳の楽園 ―ヤマギシ会という悲劇」でもちょうど書いたように、みんながみんな明るく前向きなのは気持ち悪くてしかたない。人間なんだから落ち込むこともあるし、ネガティブな方向で考えてしまうことがあったって自由だ。本人がポジティブに行こうとするのは自由でそのための指南書が多くあるのも勝手なのだが、なんら方法論が示されず、精神論にしか徹していないのは、全体主義的な危険性さえ感じる。
水谷修氏の「夜回り先生」についても、周りの環境にすべての責任があり、子供は悪くないとする、子供への自己啓発本だとずばり切る。私が以前読んだときも、何か違和感を感じたのだが、異常なまでに周りの環境(=大人)の責任にするところに気持ち悪いものを感じたことに気づいた。また、出版元のサンクチュアリ出版の成り立ちも知らなかったが、サイトで出版されている書籍を見ると、見事なまでに自己啓発系の書籍で占められている。なるほど。知らないところで、みんな「自分探し」が好きになっているようだ。
自分自身のことに戻って考えると、確かに「自分探し」に走るときは、自分の中で迷いがあり、また逃げがあるときのように思う。「自分探し」を否定するものではないが、本当の自分なんてそもそもなく、自分の成長を望むならば、他者や環境に依存するのではなく、もっと主体性を持って考えていきたいものだ。
自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64)