2008年11月16日日曜日

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ

高校3年で希望の学部/学科を決めるときに、教育心理学に進もうかと思ったことが一瞬あった。友人に「お前はカウンセリングなんかでも、平気で死ねばとか言っちゃいそうだからダメ」と言われ、それもそうだとあっさり諦めた。

平気で死ねばと言ってしまいそうなのは今も変わらない。それでも、ここ数年でだいぶ自分を抑えることを覚えたつもりだ(この年齢になって、やっとそれを意識するようになったというのも情けないのだが)。また逆に、大したことにない一言にも傷つくようになった。進歩なのか退化なのかわからないが、傷つけられることで言葉が持つ怖さを知ったのも事実だ。

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ」の著者の豊田正義氏は私とほぼ同年代。
 私は相当なペシミストである。自分自身のことでも、家族のことでも、他人のことでも、世の中のことでも、いったん悲観的な考えにはまったら止まらなくなり、そこ知れぬ絶望感に襲われるときがある。それをこじらせると、鬱状態に突入する何も信じられなくなる。特に自分自身を含めて、人間が信じられなくなる。いいかげんこういう状態から解放されて楽になりたいし、なにより希望を持ちたいが、焦らば焦るほどに深みにはまるのが常だ。「まったく救いようがないなと」と我ながら思う。
 そういうなかで私は、自分自身が勇気づけられる言葉を探し続けてきた。絶望を突き詰めた末に希望を見いだした人の言葉。徹底的に否定的なものを味わった末に肯定的なものを獲得した人の言葉。偉大な作家や宗教家などの作品には、そういう珠玉の言葉がちりばめられている。愛読書はいくつもある。しかし、凡庸な私には、偉大な作家や宗教家の行き方が遥か彼方のことに思える。もっと親しみを感じられる存在でいないだろうか。気軽に会いに行って、じっくり話を聞いてみたい。私は自分自身の救いとして、そういう人の生の声を渇望していたのだ。
本書における著者の立ち位置がただのライター/ジャーナリストのそれではなく、もっと自らの問題として向き合っているように感じたのだが、この「おわりに」に書かれていた豊田氏の言葉を読み、そのわけがわかった。

氏はバブルの真っ只中に学生時代を過ごした。私も同じだ。偶然にも大学も一緒だったので、彼が書く、当時の大学の一種異様な状態は良くわかる。
 世の中には、虚飾に満ちた偽りの「希望」を軽々しくふりまく人がいる。深みのない、重みのない、輝きのない「希望」の言葉が蔓延している。
 私の学生時代、バブル経済を迎えた頃には、そういう輩がうじゃうじゃと生息していた。社会全体が虚飾の時代だったので当たり前といえば当たり前なのだが、いま省みれば、あまりにも多くの人が「希望」の言葉に踊らされ過ぎていたと寒気がする。
 あの頃は、学生の間にも、明るく楽しく生きていなければいけないかのような雰囲気があった。私の中にもそういう強迫観念があり、まわりから「ネアカ」と認められることに必死だった。いったん「ネクラ」と決めつけられば、露骨に嫌われた。
そう、当時はそんな時代だった。テニスにサーフィンにスキー。それらをしないと大学生ではないかのように思われていた。マニュアルどおりの行動をすることで初めて仲間として認められる。似たようなサークルばかりが大学にはあふれていた。

筆者はそんな中で早稲田大学文学部という一種独特な世界に入ることで救われるのだが、私の場合はロックだった。私が大学を卒業してちょっと後に、バンドブームがやってきたので、おそらくそのころはまた違った雰囲気になっただろうが、私のときには、ロックをやっているのはまだ変わり者だった。テニスにサーフィンにスキーを出来なくても、ギターを抱えていることが免罪符となった。
 しかし、あの虚飾の時代に、「ネクラ」と呼ばれがちな生活を送るのは、かなり抑圧感を強いられたのも事実である。全体からすれば早稲田の文学部は特殊地帯で、一歩外に出れば、「ネクラ」の居場所はほとんどないのである。私の知り合いはみんな共通して、「ネアカ」の世界を嫌悪しながらも強烈なコンプレックスを持っていた。煮詰まった末に行方不明になった人もけっこういた。いろいろな噂が流れた。海外へ放浪の旅に出かけたとか、カルト宗教にはまったとか…。
 特に早稲田はカルト宗教の温床で、当時はオウム真理教や統一教会などがたくさんのダミーサークルをつくり、悩める「ネクラ」の学生たちを次々に勧誘し、洗脳していた。私の知り合いの幾人かは、その網に引っかかってしまったのだろう。あまりにも突然、音沙汰がなくなった。
そう。学生運動もまだ盛んだったが、私のころはカルト宗教が大学にはびこっていた。大学入学が決まり、学内を見学しているところに、親しげに近寄ってきた先輩学生に女性アイドルが出る新歓コンサートチケットを渡されたのだが、そこにCARPと書かれていたりした(後からその意味を知った)。ビデオセンターに連れて行かれたことのある同期もいた。

カルトにはまった人たちと自分との間に大きな違いがあるとは思えない。著者は、後にオウム真理教の事件があったときに、テレビに映る信者の中に大学の仲間を探したというが、私も同じだ。実際、私の同期には、オウムの幹部と1ホップくらいで到達するものが多くいた(ということは私からも2ホップ程度だ)。

そのような時代で、時代との違和感を感じ、カルト宗教にも入れなかった/入らなかった人間が、その後も同質性を要求する社会の中で生きていこうとすると、当然壊れることはありうる。本書はそのような壊れてしまった人が駆け込むことのできる回復者カウンセラーの話だ。

カウンセラーは数多くいれど、怪しげな人、理論だけを振りかざす人、宗教に勧誘する人、いろいろいる。救いを求めている人に説教する人さえいる。そのような中、本当に心を割って話せるのは、別にその道の専門家でなくとも、自身がその痛みを知っている人だ。

痛みを知った上で、その痛みを自分の問題として治癒するまで付き添える人。そのような人こそがカウンセラーの資格のある人ではないかと思う。
ほうたいを巻いてやれないなら、他人の傷に触れてはならない

「続 氷点」(三浦綾子著)より

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ
壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ