2008年3月16日日曜日

続 氷点

三浦綾子の「氷点」をこの間読み終わったのだが、読み終わると同時にすぐに「続 氷点」を読み始めた。「氷点」と同じく、文庫で上下2冊になっているくらいのボリュームのある小説なのだが、一気に読めてしまった。
「氷点」は最後で主人公陽子が「許し」を求めるところで終わるが、「続 氷点」では陽子が「許せるか」がテーマとなる。陽子だけでなく、父の啓造も自身の犯した罪に対しての許しを得るために教会に通う。「氷点」よりも「続 氷点」のほうがより宗教的だ。

「氷点」もドラマチックな展開だったが、「続 氷点」はさらにドラマチックなストーリーだ。「許し」がテーマなため、ともすれば重くなり勝ちなのだが、そこは個性的な登場人物の人間模様を描くことで、読者を飽きさせない。今さらだが、三浦氏のストーリーテラーとしての力量を感じさせる。ただ、一方でリアリティには欠ける。複雑な関係を持つ人間が偶然に近しい関係になることはほとんど無いだろう。その意味では「氷点」のレビューでも書いた「赤いシリーズ」的なものは引き続き感じる。

この「続 氷点」の中で登場人物が言ういくつもの言葉が私の胸に残った。

ひとつが陽子や徹の友人となった順子が手紙の中で陽子に言った言葉。彼女の父親が色紙に書いて薬局に飾っているというもの。

    「ほうたいを巻いてやれないなら、他人の傷に触れてはならない」

順子は手紙の中で、さらに「わたしは自分でほうたいを巻くことを知っています。」と書く。自分もこのように自分で自分の傷の手当くらいできるよう強くありたいと思う。また、「ほうたいを巻けないから」と「他人の傷に触れない」ようにするのではなく、できるならば「ほうたいを巻く」ことを常に目指していたい。ただ、興味本位としかなりえないのならば、他人の傷に触れないほうが100倍もマシだ。

もう1つが啓造が教会で聞いた説教の中の言葉。

    「人間は、自分を正しいと思いたい者です」
    「あいつの良心は、と見下げ、見下げることによって、自分の正しさを主張し<どいつこもこちもろくな者でない>と飛躍する人間」
    「低い正義感の人間は、他人を見下げる」

この後に「人間は、あくまでも自分を正義の基準とすると牧師はいった。自分を絶対の基準とし、それより高い者をも、低い者をも、嘲笑する。」と続く。私は聖人には程遠いが、自分が他人に対して不快に感じたり、劣等感を感じたり、優越感を感じたり、それらは確かにすべて自分が基準となっている。ただ、この基準である自分は絶対なのか。

小説の最後で、網走の流氷を陽子は見に行き、そこで宗教的な奇跡を目にすることになるのだが、そこで彼女が思い出す啓造から読むように言われた聖書の一節(ヨハネによる福音書八章一節から十一節まで)がまた考えさせられる。
 その個所には、姦通の現場から引きずり出されてきた女が、衆人に石で打ち殺されるか、どうかという場面が記されていた。
当時のユダヤの律法によれば、姦通罪は死刑であった。しかも、石をもって打ち殺せというのだ。宗教学者や、信仰の篤い男たちが、その女をイエスの前に突出し、
「こういう女は、おきてでは石で打ち殺すことになっているが、あなたはどうするか」
とせ、迫った。おきてのとおりに殺せといえば、愛を説く日ごろの言動に矛盾し、且つ時の支配者ローマ帝国の法律に違反する。殺すなといえば、ユダヤの律法をふみにじることになる。どう答えてもイエスを、窮地に追いこみ得ると見た意地の悪い質問だった。
イエスは沈黙した。そして身をかがめた。そして指で地面に何かを書いた。
彼らは、更に執拗に回答を迫った。イエスは彼らを見まわしていった。
「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
再びイエスは、地面に何かを書きつづけた。
一人が去り、二人が姿を消し、やがて残ったのは、イエスと女だけであった。
「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
その言葉に、啓造は太い飽か朱線を引いておいた。陽子は痛かった。
なお、このエピソードは「姦通の女」として良く知られている。

最後に陽子の茅ヶ崎の祖父から言われた言葉を書いて、このレビューを終わりにする。

    <一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである>

最近、少し思うことがあり、大学四年時に就職活動の際に考えたことを思い出す。それは「人生一度しかないのだから、自分が人類に貢献できることを探したい」というものなのだが、ここで書かれていることと同じだ。大それているし、青臭いのだが、今もこの思いは一緒だ。