話はまず、MIGAの長官になったところから始まる。公用語が英語になったのだが、いろんな人種が話す英語がわからないというエピソードや事前に配布された資料を完璧に読んで、それを基にした濃い議論が行われるのが当たり前という会議に面食らう話。外資系にいる私は思わずウンウンと頷いてしまう。ただ、残念なのは、結局、筆者は努力して、それぞれに対応したのではなく、日本流を貫いてしまった。貫けたのはあなたがトップだったからだろうと言いたい。
こんな調子で「日本流が世界でも通用する」とか「人間の情がやはりモノを言う」とかを最後まで聞かされるのは勘弁して欲しいと思っていたら、すぐに日本人の英語に関する本質論に入る。筆者だけでなく多くの人が指摘していることなので、特にこの本からということはないが、実際に野村證券という日本の一流企業で幹部にまで上り詰めた人が言うことなので説得力がある。英語がしゃべれると逆に出世できないという気が狂っているとしか思えない企業の論理(さすがに今はもうこんな会社は無いと信じたい)や首相の海外遊説に同伴する記者のジャーナリストとしては信じられない行動が紹介される。
特派員が英語を十分しゃべれないくらいだから、サミットに同行する政治部記者は推して知るべし、である。首相も英語が話せないけれど、同行する記者もしゃべれない。英語のしゃべれない日本の政治家と政治部貴社が一緒にクルーを組んで、ひたすら閉鎖的な情報交換をやっている。なにやら最近、英語教育論や日本語についての議論がネット上で活発なようだ。すでに多くの人に指摘されているようだが、国語としての日本語を大切にすることと英語でのグローバルなコミュニケーションを実現することは矛盾しない。矛盾しないどころか、おそらく英語を使えば使うほど、日本/日本語の文化の重要性が理解でき、日本語の発展にもつながるだろう。
彼らには、サミットで何が起き、何が変わるのか、本当の取材をする能力があるだろうか。海外にまで行って、首相にベターッとまとわりついて、日本の政局について首相が何を言っただの、首相のマフラーがどうだのと、一挙手一投足を取材して書き散らすほかないのだ。
信じられないことだが、たった三日のサミット取材でしかないのに、記者たちと首相が首相官邸でビールを飲んで、結団式までやってしまう。そして記者たちは首相と同じ飛行機でサミットに乗り込むのだ。この光景を外国人記者が見たらきわめて奇異なものに映るに違いない。クリントンが日本に来る前に、ニューヨーク・タイムズなどの記者がホワイトハウスで結団式を開き、大統領とビールを飲み交わすなどあり得ないことだ。ジャーナリストとしての彼らのプライドが許さないからだ。
英語オンチが国を亡ぼす (新潮OH!文庫)