「なあ、思ったんだけど、人間って今日考えていることと明日考えていることが変わるだろ。で、1週間とか1ヶ月とか、さらには1年、数年とたった場合、肉体としては同一人物だったとしても、すっかり考えていることが変わっているとすると、それは本当に同一人物といえないよね。そうなると、今、人間が死を恐れているけれど、時間とともに、実は人間は入れ替わっているのだから、本当は人間は生きながらにして、常に少しずつ生まれ変わっていることならないだろうか。これを理解すると、死への恐れって違うものになるよね」
肉体だって、細胞が少しずつ入れ替わって、6年とか7年で全部入れ替わりになると言う。そう考えると、6年前と今とは違う人間だ。良く、人が変わったみたいとか言う/言われることがあるが、そんなのは当たり前なのかもしれない。
今回、紹介する「他人と深く関わらずに生きるには」(池田清彦著)は、他者との関わりを極力避けて、できるだけ個として独立することを書いている本だ。このブログを読んでいる人はわかるだろうが、私は多くの人に支えられて生きてきた。また、同じように他人にもいろいろと自分の意見を真剣に伝えてきた。だが、一方で、自分の考えを押し付けすぎなのか、鬱陶しいとか暑苦しいと言われることもある。また、この間と言っていることが違うと戸惑われることもある。
それぞれ、私にも言い分があるが、少し他者との関わりが必要以上に濃すぎるのではないかと思っていたときに、本書を見つけた。たまたま書店で平積みにされていた。なんと言っても書籍タイトルが良い。すぐに目に飛び込んできた。
他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫) 池田 清彦 新潮社 2006-04-25 by G-Tools |
読み始めると、私の考えていることと近いことが書かれていることに気づく。
人の心は毎日変わる。但し、自分に関してだけは、どんなに変わっても、自我は同一性を主張して、私は私だと言うわけだから、自分の心変わりだけは非難しない。他人に対して、あなたは前のあなたではないといって論難しても、そんなことは当たり前なのだから、非難する意味はないのだ。あなたの自我はあなたの脳の中だけにあって、他人の脳を支配することはできないのである。逆に考えてみよう。あなたの自我が他人によって支配されているとしたら、あなたはうれしいだろうか。
究極の所は、自分の心は自分だけのものであり、他人の心はその人だけのものである。多くの人は、自分のことを理解してもらいたい、認めてもらいたい、と思っている(らしい)。多くの人が言う理解してもらいたい、という意味が私には良くわからないが(自分だって自分のことがよく理解できないのに、他人が理解できるわけがない、と私は思う)、後の二つはよくわかる。
<中略>
しかし、認めたり、ほめたり、というのはほとんどの場合は所詮はフリだから、余り深く付き合うと、ウソであることがバレてしまう。深くつき合わなければ、自分は相手に認められているに違いないという自分の思い込みが破綻する恐れは少いから、幸せな気分でいられるではないか。君子の交わりは淡きこと水の如し、とはそういうことではないか、と私は思う。逆に言えば、ある程度認められていると思っている人は、他人と深くつき合わなくても、幸せでいられる、ということなのかもしれない。
本書はこのような調子で、できるだけ他者との関わりを持たずに生きる方法が書いてある。前半は「他人と深く関わらずに生きたい」という個人への提案、後半は「他人と深く関わらずに生きるためのシステム」ということで社会システムに対する提案となっている。
全体と通じて、かなり筆者の押し付けが強いような気がして、これは反発する人も多いだろうと思っていたら、やはりAmazonでのカスタマーレビューも厳しいものが多かった。後半の社会システムへの提案にしても、いろいろな前提が抜けているものや実現性があまりにも薄いものなどもあり、特にこちらに対する批判が強いようだ。
だが、それでもこの本は読むに値すると思う。筆者の言うことを極端な毒薬として捕らえると良いだろう。毒薬は近くにあるだけで、それを意識した生活をするようになるはずだ。そんな感じで読んでみてはいかがだろう。
少なくとも、私は本書を読んで、自分の今までの行いを振り返ることはできた。