2008年11月18日火曜日

精神の解放

中学のころシンナーをやっている友人がいた。シャブ中が校内を徘徊し、ドラッグの売買が日常となっているらしい今日ではシンナーはもはや過去の遺物かもしれないが、とにかく私の若いころはシンナーだった。

その友人は事あるごとに私にシンナーを勧めた。脳が破壊されるから嫌だという私に彼は「脳が破壊されるなんて嘘だ」と言う。

「いや、実際、保健室とかにある資料でも、脳が破壊される様子が書かれているじゃないか」というと、「あれが捏造されているとは思わないのか」と彼。なんのために捏造する必要があるのかと思ったが、彼は「国家が国民の精神をコントロールしようとしているからだ」と言う。つまり、シンナーや大麻、麻薬のようなもので、民が自ら精神を解放されては、国による国民の統制が不可能になる。それを国家は恐れているのだそうだ。

思わず説得されそうになったが、結局シンナーはこの年齢になるまで、まだ吸ったことが無い。もちろん、吸わなくて正解だった。

大麻論議がわきあがっている。だが、大麻はエントリードラッグとしてのリスク以外にはシンナーや覚せい剤、そのほかの麻薬よりもリスクが少ないと言われている。もともと、日本には麻を吸う習慣さえあった(林業従事者による「麻酔い」という行為)そうだ。それが戦後になり大麻が禁止されるようになる。

それはやはり私の同級生の言うとおり、「精神の解放」の権利を個人に保持されることを国が嫌ったためだ。これが真実だ。さぁ、皆立ち上がろう。精神の解放権を我が手に取り戻そうではないか。

マリファナ・ナウ―意識を変える草についての意識を変える

という、冗談はさておき、一時、高校生のころに「マリファナ・ナウ―意識を変える草についての意識を変える」とか「マリファナ・ハイ―意識を変えるモノについての意識を変える」を読みふけっていた自分としては、その頃と同じような議論がされていることに不思議な感慨を抱く。

でも、こんなもんを読んでいて親は心配じゃなかったんだろうか (^^;;;

2008年11月16日日曜日

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ

高校3年で希望の学部/学科を決めるときに、教育心理学に進もうかと思ったことが一瞬あった。友人に「お前はカウンセリングなんかでも、平気で死ねばとか言っちゃいそうだからダメ」と言われ、それもそうだとあっさり諦めた。

平気で死ねばと言ってしまいそうなのは今も変わらない。それでも、ここ数年でだいぶ自分を抑えることを覚えたつもりだ(この年齢になって、やっとそれを意識するようになったというのも情けないのだが)。また逆に、大したことにない一言にも傷つくようになった。進歩なのか退化なのかわからないが、傷つけられることで言葉が持つ怖さを知ったのも事実だ。

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ」の著者の豊田正義氏は私とほぼ同年代。
 私は相当なペシミストである。自分自身のことでも、家族のことでも、他人のことでも、世の中のことでも、いったん悲観的な考えにはまったら止まらなくなり、そこ知れぬ絶望感に襲われるときがある。それをこじらせると、鬱状態に突入する何も信じられなくなる。特に自分自身を含めて、人間が信じられなくなる。いいかげんこういう状態から解放されて楽になりたいし、なにより希望を持ちたいが、焦らば焦るほどに深みにはまるのが常だ。「まったく救いようがないなと」と我ながら思う。
 そういうなかで私は、自分自身が勇気づけられる言葉を探し続けてきた。絶望を突き詰めた末に希望を見いだした人の言葉。徹底的に否定的なものを味わった末に肯定的なものを獲得した人の言葉。偉大な作家や宗教家などの作品には、そういう珠玉の言葉がちりばめられている。愛読書はいくつもある。しかし、凡庸な私には、偉大な作家や宗教家の行き方が遥か彼方のことに思える。もっと親しみを感じられる存在でいないだろうか。気軽に会いに行って、じっくり話を聞いてみたい。私は自分自身の救いとして、そういう人の生の声を渇望していたのだ。
本書における著者の立ち位置がただのライター/ジャーナリストのそれではなく、もっと自らの問題として向き合っているように感じたのだが、この「おわりに」に書かれていた豊田氏の言葉を読み、そのわけがわかった。

氏はバブルの真っ只中に学生時代を過ごした。私も同じだ。偶然にも大学も一緒だったので、彼が書く、当時の大学の一種異様な状態は良くわかる。
 世の中には、虚飾に満ちた偽りの「希望」を軽々しくふりまく人がいる。深みのない、重みのない、輝きのない「希望」の言葉が蔓延している。
 私の学生時代、バブル経済を迎えた頃には、そういう輩がうじゃうじゃと生息していた。社会全体が虚飾の時代だったので当たり前といえば当たり前なのだが、いま省みれば、あまりにも多くの人が「希望」の言葉に踊らされ過ぎていたと寒気がする。
 あの頃は、学生の間にも、明るく楽しく生きていなければいけないかのような雰囲気があった。私の中にもそういう強迫観念があり、まわりから「ネアカ」と認められることに必死だった。いったん「ネクラ」と決めつけられば、露骨に嫌われた。
そう、当時はそんな時代だった。テニスにサーフィンにスキー。それらをしないと大学生ではないかのように思われていた。マニュアルどおりの行動をすることで初めて仲間として認められる。似たようなサークルばかりが大学にはあふれていた。

筆者はそんな中で早稲田大学文学部という一種独特な世界に入ることで救われるのだが、私の場合はロックだった。私が大学を卒業してちょっと後に、バンドブームがやってきたので、おそらくそのころはまた違った雰囲気になっただろうが、私のときには、ロックをやっているのはまだ変わり者だった。テニスにサーフィンにスキーを出来なくても、ギターを抱えていることが免罪符となった。
 しかし、あの虚飾の時代に、「ネクラ」と呼ばれがちな生活を送るのは、かなり抑圧感を強いられたのも事実である。全体からすれば早稲田の文学部は特殊地帯で、一歩外に出れば、「ネクラ」の居場所はほとんどないのである。私の知り合いはみんな共通して、「ネアカ」の世界を嫌悪しながらも強烈なコンプレックスを持っていた。煮詰まった末に行方不明になった人もけっこういた。いろいろな噂が流れた。海外へ放浪の旅に出かけたとか、カルト宗教にはまったとか…。
 特に早稲田はカルト宗教の温床で、当時はオウム真理教や統一教会などがたくさんのダミーサークルをつくり、悩める「ネクラ」の学生たちを次々に勧誘し、洗脳していた。私の知り合いの幾人かは、その網に引っかかってしまったのだろう。あまりにも突然、音沙汰がなくなった。
そう。学生運動もまだ盛んだったが、私のころはカルト宗教が大学にはびこっていた。大学入学が決まり、学内を見学しているところに、親しげに近寄ってきた先輩学生に女性アイドルが出る新歓コンサートチケットを渡されたのだが、そこにCARPと書かれていたりした(後からその意味を知った)。ビデオセンターに連れて行かれたことのある同期もいた。

カルトにはまった人たちと自分との間に大きな違いがあるとは思えない。著者は、後にオウム真理教の事件があったときに、テレビに映る信者の中に大学の仲間を探したというが、私も同じだ。実際、私の同期には、オウムの幹部と1ホップくらいで到達するものが多くいた(ということは私からも2ホップ程度だ)。

そのような時代で、時代との違和感を感じ、カルト宗教にも入れなかった/入らなかった人間が、その後も同質性を要求する社会の中で生きていこうとすると、当然壊れることはありうる。本書はそのような壊れてしまった人が駆け込むことのできる回復者カウンセラーの話だ。

カウンセラーは数多くいれど、怪しげな人、理論だけを振りかざす人、宗教に勧誘する人、いろいろいる。救いを求めている人に説教する人さえいる。そのような中、本当に心を割って話せるのは、別にその道の専門家でなくとも、自身がその痛みを知っている人だ。

痛みを知った上で、その痛みを自分の問題として治癒するまで付き添える人。そのような人こそがカウンセラーの資格のある人ではないかと思う。
ほうたいを巻いてやれないなら、他人の傷に触れてはならない

「続 氷点」(三浦綾子著)より

壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ
壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ

ブログ論壇の誕生

ブログ論壇の誕生 (文春新書 (657))
■内容紹介■
旧弊な物言いは容赦なく「炎上」させ、アルファブロガーが先鋭的議論をリード。リアル社会を衝き動かす、新しいネット言論空間

社会で何が問題になっていて、どこが争点なのかを知りたいとき、何を見ますか? 新聞、テレビ? しかし、その紋切り型で、一方通行の論調に期待していない方も多いはず。けれどもネットに目を転じれば、「専門家ブロガー」をはじめとして、真摯で先鋭的、活発な議論が展開されています。

格差社会、秋葉原連続殺傷事件、青少年ネット規制法、チベット問題への対応……参加自由でタブーの存在しないネット論壇は、いまや世論をリードし始めました。ITジャーナリズムの第1人者が、その大きなうねりをレポートします。

文芸春秋ホームページより)
「ブログが既存のジャーナリズムを変える」という意見がある。

この言葉は2つ意味がある。1つはジャーナリストがニュースソースとしてブログを含むインターネット上の情報も利用することが増えているという意味。もう1つがブロガー自身がジャーナリストに成り代わり世論を形成するという意味だ。前者には安易にインターネット上の情報を使うことによる弊害も見える。事実関係を確認することの無い誤報やネット文化そのものに対する誤解。ネットリテラシの問題と言っても良いだろう。このような問題がまだまだ散見される中でも、ネットの特性を理解し、良い形で広くニュースを拾えるようになってきている状況もある。今までは記者クラブなど狭いニュースソースだけを元に記事が作成されていたのが、少しずつではあるが変わりつつある。後者はいわゆるパブリックジャーナリズムというような形のものから、そこまで肩肘張らずとも、一市民の書いたものが自然と世論を形成するというようなものまで幅広くある。

この2つの事象には相関関係が存在する。ブログ自身の持つコメントやトラックバックという機能により、ニュースソースとなること自身が良くも悪くもフィードバックループを作ることになる。

佐々木俊尚氏は「ブログ論壇の誕生」でネットに定着しつつあるブログの状況と可能性を説く。ここしばらくのさまざまなネット上の事件を取り上げ、それぞれの課題と今後への見通しが解説されている。インターネットにどっぷりと浸かっている人には知っている内容が多いかもしれないが、それでもこのように網羅的にカバーされると役に立つ。それは以下の目次を見るだけでもわかるだろう。
はじめに ブログ論壇とは何か

1 ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
 第1章 毎日新聞低俗記事事件
 第2章 あらたにす
 第3章 ウィキペディア
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
 第4章 チベット問題で激突するウヨとサヨ
 第5章 「小沢の走狗」となったニコニコ動画
 第6章 志位和夫の国会質問
 第7章 安倍の窮地に暗躍した広告ロボット

Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
 第8章 辛抱を説く団塊への猛反発
 第9章 トリアージ
 第10章 承認という問題
 第11章 ケータイが生み出す新たなネット論壇世界

Ⅳ ブログ論壇はどこに向かうのか
 弟12章 「JJ」モデルブログ
 第13章 光市「1.5人」発言
 第14章 青少年ネット規制法
 第15章 「ブログ限界論」を超えて

おわりに
あとがき
特別付録 佐々木俊尚が選んだ著名人ブロガーリスト
私は佐々木氏と同じくネットの未来を信じ、さらにはネットによるジャーナリズムが現状の日本のジャーナリズムの課題を解決しうると考える。全国紙や通信社の記事を見ても、内容に違いが無いものが多く(すべてとは言わない)を占める記事や結局何を言いたいかわからない社説。ブログ自身が変えることもあるだろうし、ブログから学ぶことで既存のジャーナリストが変わっていくこともある。何よりも、今のメディアがブログという別のジャーナリズム基盤の登場で変わっていくことを期待したい。今のメディアはあまりにもネットを理解していない。敵視しているとしか思えない人もいるほどだ。

佐々木氏は事実を述べるというよりも、期待を込め、彼の活動を通じて、このネットでの動きを加速していこうとしているように思える。そのため、本書の内容についても、ネット上では必ずしも支持をされているとは言えない。それはAmazonのカスタマーレビューを見てもわかる。おそらく、このブログを読んでいる人でも違和感(=あまりにもネットの影響力や今後の可能性を過大評価しているのではないか)を持たれる人もいると思う。それは理解できる。ただ、ネットの比重が高まっている人にとっては逆に当たり前になりつつものであり、そのような層が増えているというのも事実だ。だからこそ、本書は、出来れば、ネットをまだメールや検索程度にしか浸かっていない人にこそ読んで欲しい。本書の内容に同意できないにしても、このような考えを知ることだけでも何かのヒントになるだろう。

最後に、本書を贈呈くださった佐々木さんにお礼申し上げたい。いつもありがとうございます&もっと前に読んでいながら、レビューが遅くなって申し訳ありません。 > 佐々木さん

あと、「佐々木俊尚が選んだ著名人ブロガーリスト」に私のもう1つのブログ「Nothing ventured, nothing gained.」を入れていただけていて、ちょっと驚いた。著名人じゃないし (^^;;; 本書の内容からすると、こっちのブログ(玲瓏)のほうが適している気がしないでもないが。

ブログ論壇の誕生 (文春新書 (657))
佐々木 俊尚

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2008年11月7日金曜日

筑紫哲也氏逝く



帰宅途中に携帯のニュースで、筑紫氏が亡くなったことを知る。

一般には、報道に偏りがあるとか、個人の主義主張を公共の電波にキャスターという立場で示すことが適切でないなどの批判もあるが、実は私は氏が好きだった。

私にとっての筑紫哲也氏は朝日ジャーナル編集長の氏だ。高校から大学のころにかけて、毎週買っていた雑誌の1つが朝日ジャーナルだったのだが、ちょうどそのときに編集長だったのが、筑紫氏だ。新人類と呼ばれる私より少し上の世代を特集することも多く、また流行していた新宗教(新興宗教)も良く取り上げられていた。「若者たちの神々」や「新人類の旗手たち」などは文庫本で、今も持っているほどだ。

それよりも、驚いたのは、なんと筑紫氏が編集長だったころの朝日ジャーナルをまだ何冊かとってあったことだ。われながら、良くこんなのを残しておいたものだと思う。このころの朝日ジャーナルから受けた影響は大きい。もっとも、同時に諸君なども読んではいたが。



昨年休養に入られる前に、会社に取材で来ていた氏と握手をさせてもらい、「朝日ジャーナルのときからのファンです」と言えたのが、今となっては思い出だ。

冥福をお祈りする。合掌。

2008年11月3日月曜日

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)
アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

英語が下手なのがわかるだろうに、聞き直しても、同じフレーズを同じスピードでしか繰り返してくれないアメリカ人が(結構)いる。仲の良いアメリカ人の知人が教えてくれたが、第2外国語をまともに習得している人が少ないので、何故聞き取れないかがわからず、ゆっくりしゃべることや簡単な単語や言い回しにすることが必要だとも知らないのだと言う。また、多くのアメリカ人はパスポートも持っておらず、海外に出た事もなく、それどころか、自分の州から出ることが無い人も少なくないという。

この本ではアメリカ在住のコラムニスト町山氏が世界の中心である(あった?)アメリカの実はクレイジーな真実を紹介する。軽い文体でいろいろなニュースや映画、テレビなどを基に、「これでもかっ!」というくらいにアメリカの異常な部分が描かれる。ブッシュの無能さやキリスト教原理主義の真実。どこのコメディだと思うが、これが事実。こんな国に世界は良いように操られていたわけだ。

どのくらい面白い国かについては、町山氏のブログエントリーにある目次を見てもらうだけでもわかるだろう。

1つ1つのネタについて、すべて自分が詳しかったわけではないので、メディアリテラシーの重要性を謳う自分としては、英語ではどのように扱われているか知べてみたいと思う。全部は無理だろうが。

財産三分法

財産三分法というのがある。資産形成の際の考え方で、1) 現金、2) 証券、3) 不動産 に資産を分散することで、リスクと利益拡大のバランスとるものだ。

現金=預貯金
証券=株式や債権
不動産=読んで字のごとく

不精かつ元手もそんなに無い私はこんな七面倒臭いことはほとんどやっていなかったんだけれど、数年前の株ブームのときに、いろいろ手を出して、いくつかの銘柄の株は持っているし、外国株式については自分で調べるのが面倒だったのと、債権にも興味があったので、ファンドで持っていたりする。さらに、前の会社の持ち株プログラムなどで買った株の売却益はドル建て預金で持っていたりする。不動産はREITに手を出さなかったので、自分の住居くらいしかないが、それでも結果的に自分の資産は三分されているようになっている。あら不思議。

臆病だったので、株式や債券への投資はそんなに行なっていなかったこともあって、もともとかなりバランスが悪かったのだが、この世界経済危機によって、株式/債券の資産が大きく目減りして、もう目も当てられない状況になっている。

臆病のくせに、ギャンブル的な性格もあるので、ここは一発逆転とか考えていないこともないのだが、それよりもここはもう1つ別の投資を考えはじめている。

それは自分への投資。前の会社でキャリアディベロップメントとして部下にも話をしたことがあったんだけど、こんなときには、あえて自分へ投資。

ということで、先ほど、またAmazonで本をしこたま買った。

私と同じようなことを考える人がきっとたくさんいるだろう。ってことは、AMZNは買い?!

2008年11月2日日曜日

Jamie Cullum Live in WISM (Where IS the Music) 2008

Jamie Cullumという若手ジャズアーティストがいる。米在住の同僚から今年のMonterey Jazz Festivalでの演奏が素晴らしかったと聞いていたので、彼が出演するJ-Wave主催のWism (Where IS the Music) 2008に行ってきた。場所は恵比寿ザ・ガーデンホール。



今回はSoil & "Pimp" Sessionとのコラボだったのだが、不勉強のため、彼らを知らず。知らなかった癖に言うのは大変失礼だと知りつつも、言ってしまうのだけれど、正直、アジっていた太っちょの彼はちょっと苦手。

だが、Jamie Cullumの歌と演奏は素晴らしかった。Soil & "Pimp" Sessionの演奏との相性も抜群。こう言ってもわからない人が多いかも知れないけれど、まるで原田真二のよう。

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