2022年5月1日日曜日

母の幼少時の満州からの引き揚げ記録

母の遺品を整理していたら、私が小学生の頃に学校の課題で書いた、母の戦争体験の記録が出てきた。親から戦争体験を聞き取り、それを作文にして提出するという課題だったと思う。

次のような作文だった。

昭和十九年四月

 その当時、母は祖父(軍人)の転勤のため、東京から満州新京へ渡った。 そのころ東京は、だんだん空しゅう がひどくなり、物資不足し、欲しがりません勝つまでは、とぜいたくは敵だ、と、がまんがまんの毎日でした。それも日本が勝つと信じていたからです。

 満州は東京とちがって広々とした 土地の中でのんびりしていました。 戦争なんてしているなんてうそみた いな毎日がつづきました。 でもその年の終わりごろには学校でみな工場 へつれていかれて、風船バクダン作りなどやらされた。

昭和二十年八月

 ソ連と戦争がはじまり、母たちは着の身着の日本へ帰ろうと無がい車に乗り、南に向いました。 と中何回ものソ連のしゅうげきにあい その都度草むらや車の下にひなんし ました。でも三十九度線をこえることができずに北朝鮮の「チンナンボ」 というところで終戦になってしまいました。

 それから昭和二十二年の十月までソ連兵にこきつかわれて、日本に帰る日を待っていました。家もなく倉庫やお寺に分かれてくらしました。 倉庫の中は土で、それにゴザをしい て、ためーじょうに三人ぐらいの くうかんしかありません。いろんな 家族がいっしょなので御手洗いもなく、夜などはソ連兵がおそってきま した。とてもこわかった。

 その時、よくみんなでいつ日本に帰れる かと、「コックリさん」をやってなぐさめあいました。山の御寺にいたときは頂上から海が見えるので船が見えると、日本の船がむかえに来たのかといつも心をはずませていました。それから一年くらいたったとき船が来ましたが、働き手がいる家は残されました。それで母達は歩いて南朝鮮まで行くことにしました。山をこえ、夜川を渡たり、と中何回も野宿 してやっと南朝鮮の収容所へ着きました。 それまでには、病人が死んだり、生まれ た赤ちゃんは穴をほってうめたり、年をとったおばあちゃんは置いて行ったり、 国境をこえるときは若い娘がソ連兵についていかれたり、ずいぶんぎせい者かありました。

 その収容所の生活もきびしく食べ物は一日二回とうもろこしのゆでたのがコップ半分でした。

昭和二十二年十月ごろ

 やっと船に乗るじゅんばんが来て貸物船に乗り、二週間くらいかかって佐世保に着きました。

 祖父はソ連兵につかまりほりょになりました。


当時の引き揚げ者の記憶はほぼ同じようなものだ。母はいくつかの手記を読んだりしていたようだ。日本経済新聞のこの記事も母から聞いていた話と近い。

歩いて越えた38度線: 日本経済新聞