2011年11月16日水曜日

天才と狂人の間―島田清次郎の生涯

ヤングジャンプに「栄光なき天才たち」という連載があった。何度か続編や新編として続けられているようだが、私が読んでいたのは80年代後半、私が大学生のころだ。 

そこで島田清次郎を知った。 栄光なき天才たち 10 (ヤングジャンプコミックス) 

私は見ていないが、本木雅弘主演でNHKのドラマもあったようだ。
涙たたえて微笑せよ明治の息子・島田清次郎

不遇な少年期に、自分は他者とは違う。選ばれし者だというと思うようになる。後に統合失調症を発症するが、すでにこのころから精神的に常人ではなくなっていたように見える。 

明治から昭和への激動の時代を背景に、純粋な小説というよりも世間をアジテートするような論調だったこともあり、大ヒットとなる「地上」を産み出すにいたる。

文学としての評価はあまり高くない。それもあり、現代ではほぼ忘れられた存在になっているようだ。

青空文庫で読めるので、私も少し読んでみたが、途中で止めてしまった。

青空文庫:地上 地に潜むもの (島田清次郎)

小説家/作家というよりも、恐らく精神的な主導者という存在に本人もなりたかったのだと思う。女性スキャンダルにより世間から抹殺され精神に異常をきたし、そして亡くなる。

本人は無念だったろうが、時代の寵児というのはこのような存在のことを言うのかと考える。

アジテート出来る存在。本当は今はこんな人がもっといても良いように思うのだが。

天才と狂人の間―島田清次郎の生涯 (河出文庫) は彼の生涯を綴ったもの。直木賞を受賞。

金哲彦のマラソンレース必勝法42

金哲彦さんと言えば、ランニングのコーチとして多くの著作を出されている。私も何冊か読んだことがあるが、どれも秀逸だ。こういった実用本を多く出す人にあるように、オーバーラップする部分もあるが、それでもいつも参考になる。ついつい新しい本が出ると手にとってしまい出版社の術中に嵌っている。



このマラソンレース必勝法はフルマラソンに参加する人に向けたガイドだ。レース10日前からレース当日、そしてレース後までのTipsを42個紹介している。

正直、どれもがどこかですでに話されていることである。著者の金さんの別の著作からか、もしくは他著者の書籍や雑誌、ネット記事かもしれない。

だが、レース前にどうしてもじたばたしてしまいがちなランナー、特に初心者ランナーにとってはこのように時期に応じてやるべき事がまとめられているのはありがたい。それぞれのTipsがせいぜい4から5ページでまとまっているのも読みやすくて良い。

初級者、中級者、上級者と、Tipsがどのようなレベルのランナー向けかが示されているし、またレース当日については通過距離ごとに細かく書かれている。

少なくとも、本書を読んでおけば、大失敗することはないだろう。欲張らなければ完走は約束されていると言っても良い。

本書を通じて、特に後半で書かれているマラソンの意義。それは「自分を客観的に見つめ直す」ことであり、それを通じて「人生を豊かにする」ことである。
マラソンにおける失敗は、他人のせいではなく、すべてが自分に責任がある。そして、失敗の原因は誰よりも自分が良く知っている。その事実をあらためて認識し、理解し、受け入れ、そして改善しようと努力するスパイラルが、自分の人生を必ず高めることにつながるのである。
まさに私がランニングに嵌っている理由もこれである。著者の金さんは近年癌を克服した。それについては「走る意味―命を救うランニング」に書かれている。こちらもお勧め。そのような経験をされた金さんだからこそ、この言葉は重い。

以前書いたブログポストもあわせてどうぞ。

2011年11月14日月曜日

ホイト親子の夢と勇気の実話 やればできるさ Yes,You Can.



タイトルがどうにかならんかと思うが、知らない人に知ってもらうにはこのタイトルでも仕方ないかと思う。「Yes, You Can」というのは後述するが、ふさわしいかも。

YouTubeなどでも有名になっているようだが、生まれつき障害を持った息子に普通の生活をさせよう、一般の教育を受けさせようとする夫婦。ここまでは良くある話ではあるが、彼らは決して諦めない。ある日、車椅子でしか移動が出来ない息子が言う。「お父さん、僕は走りたい」マラソンレースを見た息子は父に言う。その日から車椅子に乗る息子を押して走る父が生まれた。初めは完走がやっと、そのうちに一般ランナーに負けないスピードで。さらにはトライアスロンにも挑戦。



こういうお涙頂戴的なものには射で構えてしまうのだけれど、それでも本書で彼らの成し遂げてきたことを追っているうちにどんどん引き込まれる。

家族の愛であったり、人間としての尊厳であったり、絶え間ない挑戦であったり。そのようなものを考えさせられる。

初めにこの話を聞いたとき、やっぱりアメリカは違う。日本だったら障害を持った人間を車椅子で押しながらマラソンやトライアスロンを走るなんて、まず許可は得られない。悔しいけれど、やっぱりアメリカは自由の国だし、ダイバーシティを重んじているなと感じた。

だが、この本を読むと、彼らはなんどもダメと言われていることがわかる。そのたびにさまざまな手段を用い、挑戦し、失敗してもまた挑戦する。

「Yes, You Can」は講演で彼らが聴衆に覚えて帰ってほしいという3つの単語だそうだ。彼らは何度となく「No, You Can't」と言われ続けてきた。健常者と同じ教育を受けることも、そしてマラソンやトライアスロンに正式に選手として参加することも。

ホイト親子の夢と勇気の実話 やればできるさ Yes,You Can.

本書によると、息子を支えてきた夫妻は現在は離婚しているという。見えないところではいろいろと苦労や課題があるのではないかと想像するが、それでも走るという極めて原始的な人間の行動原理を用いて、彼らは何かを伝えてくれていると思う。

以前に書いた「アスリートと生」もあわせて読んで欲しい。

2011年11月13日日曜日

読んだ本

ほかのソーシャルサービスに書くこともあって、ブログに読書の記録を書くことがあまり出来なくなってしまっている。震災の影響ももちろんあるのだけれど、多くはただの私の怠慢。

というわけで、主に自分への記録用に今年(一部は昨年後半)に読んだ本のリストを掲載しておく。
  • 時速1000字で書く技術
    図書館で借りてきた。文書を速く大量に書きたいという欲望は昔からある。少しでも役立てばと思ったのが借りた動機。いわゆる名分を書くということを目的としたものではなく、必要に迫られて書くときの戦略と戦術が解説されている。まず、具体的に定量ベースのゴールをたてる。それが「1時間」で「1000文字」というものだ。それぞれの理由も明確に示される。スピードアップには 1) それに関わる行為そのものを素早くする方法 と 2) プロセスを効率化する方法 に分類出来るが、ここでは後者に焦点があてられる。結果としてはすでに実践しているようなことがほとんどであったが、それらを思い出すことも出来たし、読みやすい。忘れないようにしないと。
  • 英語学習7つの誤解 (生活人新書)
    これも図書館で借りた本。今年初めに読んだ「外国語学習の科学」と内容は重なる。ただ、本書の第13話にはある「達人たちの英語学習法に学ぶ」がある。これを読んでみると、達人の中には科学的には必ずしも勧められない方法であっても英語を習得出来ている人もおり、結局は努力こそが習得の鍵であるという、何か科学的に正しい効率の良い=楽な方法を探していた私などには残念な結果が示されることになる。
  • 私は真犯人を知っている―未解決事件30 (文春文庫)
    こういう未解決事件解説本というのが結構好きで、書店で見つけると大概購入してしまっている。ゴシップ的に犯罪を解説するという悪趣味な感じが行き過ぎると辟易としてしまうが、風化させないために発生当時と同じもしくはそれよりも情報を精査した形での報道というのは必要であろう。この本では犯罪だけでなく、社会を揺るがしたニュースも取り上げられている。面白かったのが「[影武者]降板 天才勝新と天皇黒澤の知られざる激突」と「桑田と清原 親友同士を引き裂いたKKドラフトの『仕掛け人』」の2つだ。「影武者」の際の勝新と黒澤監督の対立は知っていたが、勝新が現場では黒澤監督を完全に食っていたというのは知らなかった。これが原因の1つとなり勝新が表舞台から消えていくというのが事実ならば、残念でならない。桑田と清原の件は私が早稲田大学に在籍中だったということもあり、強く記憶に残っている。密約はあったんだろうなと思うし、ドラフトなんてそんなもんだと思うので、それに対しての怒りも別にない。ただ、知らなかったのは「桑田の一件でPLの野球部の後輩は早稲田どころか六大学にも入れなくなった」(清原)という事実だ。引退後の桑田はその野球道に打ち込むような姿勢から評価する声が多く、私も一目置いていたが、彼と巨人軍が行ったことの罪深さを改めて感じさせられた。
  • 福島 原発と人びと (岩波新書)
    ずっと原発問題を追っているフォトジャーナリスト広河隆一さんの著作。新書だが、写真をふんだんに取り入れている。タイトルにあるように、福島原発事故の影響を受けている人々の声を取り上げる。放射線の身体への影響については正直どこまで深刻かは私にはわからない。わかっているのは、想像よりも深刻でありそうなこと、たとえ科学的に身体への影響が無かったとしても、人々の精神を攻撃し、神経をすり減らし、人間関係を破壊し、その結果として精神的にも肉体的にもダメージを与えることだ。この中で語られる人々の、特に子供たちの声が痛々しい。
  • 原発のウソ (扶桑社新書)
    311以降、積極的に情報発信を行う小出裕章氏の著作。「不屈の研究者」と帯にあるが、まさにそのとおりであろう。311以降に政府や東電の言っていた「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」はもはやブラックジョークとして扱われるようになっているが、パニックを避けるための表現としてはあの時点であのように言わざるを得なかった背景は理解出来る。日経BPのサイトで「正しく怖がる」と放射線のことを解説していたが、まさに必要なのはパニックを起こすでもなく、放射線と生き続けるざるを得ない環境を選択した今(東)日本に残っている住民が生き続けるための知識であり、データであり、知恵である。小出氏はそのための知識を授けてくれる。それにしても、このような怪物マシンをなんでまだそのままで動かそうとするのか。次に何か起こったら国家消滅の危機だということをわかっているんだろうか。
  • 早稲田実業 躍進の秘密 (朝日新書)
    母校愛。大学に対してはあんまり思い入れが無いのだけれど、中高と過ごした早稲田実業(早実)に対する思い入れはすごい。高校野球予選は時間さえあえば観に行く。最近作られたFacebook上の同窓メンバーのグループで同期の連中の状況は気になってチェックするし。鶴巻町から国分寺に移り、商業科がなくなり、小学部が出来、男女共学になり、早大への推薦率があがり、入学の難易度はあがり、もう昔とは違ってしまったと思うところも多いけれど、野球の応援などを見ていると、あー変わらないなと思う。学校のことならだいたい知っていると思っていたのだけれど、歴史などはそうでもなかった。竹久夢二が卒業生だとはまったく知らなかった。なんと。
  • キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
    著者の佐々木俊尚さんから献本いただいたもの。ありがとうございます。
    ソーシャルサービスの台頭によって、キュレーションの重要性が認識されている。これは日々、TwitterやFacebookなどで情報洪水とも言える中、この人の発言は特に気をつけて追っておこうなどと考える人が多いことからも容易に想像出来る。この書籍は震災前に発売されたものであるが、震災関係の情報においてもキュレーションが威力を発揮した。大本営発表たる政府や公的機関などの発表を信頼出来なくなり、かと言ってデマゴークにあふれる発言の1つ1つにパニックになっても仕方ない。
    震災でもその重要性が高く認識されたキュレーションであるが、キュレーターをキュレーションしてくれるキュレーターが必要になるような事態が訪れるのかもしれない。とか思ったり。いつもながら豊富な事例と文化に結びつける読み物としても面白い切り口に感心。
  • 生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ (アスキー新書)
    こちらも献本いただいたもの。一年近くも前なのにお礼していなくてすみません。おまけに今読み直したら結構内容を忘れていることに気づいた。もう一度読まなければ。電子書籍や動画配信などについて関係者のインタビューを含めて体系的にまとめたもので、知っていると思っていることでも参考になる部分が多かった。動きが速いので、今となっては古くなった部分もあるが、それでも貴重な一冊かと。
  • 正しく知る放射能 (学研ムック)
    ガイガーカウンターの勉強をしようと思ったときに、そもそも放射能についてもきちんと理解していないと思って購入した一冊。図や写真が豊富で、さすが学研という感じであるが、これを読んだからと言って理解出来るとは限らない。前提となる知識がないと理解が難しい部分がある。また、一度読んでも覚えられない部分もある。むしろ、わからない用語が出たときなどに参考にすると良いのではないかと思う。福島などの地域でも身体への影響は現時点では限定的であるという立場に立つ本なので、それはそのように理解して読むべき。
  • 日本の「未解決事件」100 (別冊宝島) (別冊宝島 1733 ノンフィクション)
    これだけ同種の書籍を読んでいると、ほとんど内容はわかっているのだが、未解決事件マニアとしてはもしかしたら新情報でもと思い、ついついまた買ってしまう。他に読むものが無いときとか、ちょっとした時間つぶしには、何度読んでも良いんだよね。
疲れたので、このくらい。続きは1冊ごとか、またリストにして残りを。

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録を読んだ。 1999年に起きた東海村での臨界事故犠牲者の被曝治療を記録したものだ。NHKスペシャル取材班によるもの。

  【ショートクリップ】NHKスペシャル 被曝治療83日間の記録 

致死量を優に超える大量の放射線を浴びると人はどうなるのか。人間の設計図とも呼ばれる染色体が破壊されたことによる人体への影響というものが被害者である大内さんの治療記録から読み取れる。

前例の無い症例に立ち向かう状況下では教科書はおろか先生も頼る人もいない。治癒の見込みの無い患者に対してどう向きあえば良いのか。

余命半年 満ち足りた人生の終わり方でも書いたこととも通じるが、治癒の見込みが無い場合、患者は、家族は、医療従事者はどのように判断すれば良いのか。これは現代の医療全体に突き付けられた課題である。

被曝治療の場合において、特にこの東海村での事例においては、少しでも長く人間としての時間を持てるようにするにはどうすれば良いか。それを探るためにも、完全治癒が難しかったとしても治療を続けざるを得なかったのであろうことが伺える。前例が無いが故に、効果的な治療をぎりぎりまで探る。

多くの人が一生のうちに一度はかかるようになり、また命を落とす人の原因ともなっている癌の場合は、決して社会的なコンセンサスが確立し、患者への適切なアドバイスなどが用意されているというわけではないものの、数多くの事例を元に、治療を続けるべきかどうかの判断はしやすいであろう。前例が無い世界においてはその見極めが難しい。

それでも医師たちは治療が長引き、現状を維持することしか出来なくなった時点で繰り返し逡巡する。その時点での現状というのがもはや患者に苦痛しか与えず、人間としての尊厳さえも危うい状況であった。

簡単に答えを出すのは難しい。

一方、この東海村の事故を教訓にして活かすだけであっても、正しい放射線に対しての危機意識を持つことが出来ただろう。広島、長崎での被曝を経験し、さらにはこの東海村の事故を経験したにも関わらず日本はそれを正しく学習してこなかった。今度こそ、後世に、そして世界に学びを伝えることが必要だ。

2011年8月28日日曜日

Calling You

私はあなたを呼んでいるわ
ねぇ、聞こえるんでしょう?
あなたを呼んでいるの

(埋め込みプレイヤーでは再生できないように設定されていますので、YouTubeに行ってご覧ください。「YouTube で見る」というリンクをクリック。)

3/11、帰宅難民となった。

帰る手段を無くしたままビルから下を眺めると、深夜になっても多くの人が歩いているのが見える。ネット経由で見るテレビからは都内の混乱ぶりが伝えられる。Twitterなどを通じて多くの人に助けられながら早朝自宅に着いたが、寝たのか寝ないのかわからない状態のまま朝を迎え、その後もラジオとテレビ、ネットにずっと張り付く。

地震もさることながら津波の被害が大きいことがわかり、その被害規模を写す映像に言葉を失った。これはただごとではない。

原発事故に対しては、進行中であるということもあるが、非可逆な事象に対峙し、まったくどのように心を保てば良いかわからなかった。今でも正直どうすれば良いかわからない。

「フォーク」という言葉だけに脊髄反射して購入してしまった「東京人 2011年 09月号 [雑誌]」の中で小室等さんも次のように言う。
でも、3.11は、特に原発によって、再生不可という可能性を突き付けられたわけですよね。再生が可能でさえあれば、どんなに多くの人が行方不明になろうと、次の世代も生まれるし、決壊した川の跡地には滋養ある土地が残されるし、草や木もやがて生育し、すべては再生していく。常に希望がある。でも原発は希望をカットアウトした。もしかしたら再生はない。希望がないならば表現はありえない。

だから希望を回復しなくてはならない。歌い続けるなら。希望を回復するための時代を僕らは生きることになると思うんです。これからね。だから「復興」です。

幼稚だったあの頃からの「復興」(東京人 2011年 09月号 [雑誌]


3/11直後にTwitterではつぶやいたが、私は復刊前の「DAYS JAPAN」を愛読していた。広瀬隆氏の「危険な話」などがベストセラーになったのは私がちょうど大学生のころだ。清志郎はサマータイムブルースを歌った。

斉藤和義さんが「ずっとウソだった」という替え歌を歌ったことに対しては賛否両論があるだろう。だが、誰を責めるでもない。反原発の動きが活発だったときに多感な時期を過ごし、少なくとも雑誌や文庫などで積極的にその情報を集めていた私はその後思考停止に陥ってしまっていたと認めざるをえない。誤解しないで欲しい。反原発運動をすべきだった、今しようと思っているということではない(それも否定しないが)。ただ、考えることを止めてしまったことを後悔している。

先に紹介した「東京人 2011年 09月号 [雑誌]」の中で小室等さんも次のように言う。
僕もそうだけど、みんな、これまで原発に対しては、言うべきNOを言わなかった。言えることは自分の中に内在していたはずなのに、周りの空気を読み取って、なんとなく言わずにきてしまった。言うべきだった。

幼稚だったあの頃からの「復興」(東京人 2011年 09月号 [雑誌]
いったん休刊する前の「DAYAS JAPAN」から中心的だった広河隆一氏については批判もあるし、原発や放射線についての書籍については内容を丸のみしないように注意しているが、氏の「福島 原発と人びと (岩波新書)」で紹介される現地の人のエピソードは心が締め付けられるようだ。
「子どもが桜の花を拾って、私にくれたんです。それで私は、地面の物は手にしてはいけないと子どもをしかりました。我に返って、いったい私は何をしているのだろうと思って……」

福島県に住む草野史子さんは自問していた。子どもに外で遊ぶことを止めさせた時、「風と遊ぶの好きだったのに、どうしてだめなの?」と尋ねられ、彼女は答えに窮したという。

福島 原発と人びと (岩波新書)

自分の生きている間はもちろん、子どもや孫の世代でも再生は不可能な状況に陥った。だが、子供たちは親以上に覚悟を決めている。悲しい覚悟だ。それでも生きていくという悲しいが強い意思。
「友達の娘さんは高校生なんですけど、チェルノブイリの話や放射能の危険について聞かせて、一応本人に「疎開する?」って聞いたら「友達から離れるのは嫌だし、友達置いて自分だけ逃げるのは嫌だ」って。そして最後に「私は将来結婚するとしても、子どもは産みません。そういう覚悟でここに残る」って言ったんですって。だから、そのお母さんは泣いていましたよ。でも、高校生の間では結構そういう話をしているみたいです。

福島 原発と人びと (岩波新書)
同じような話はブログなどでも伝え聞く。

福島の中学生が地元の新聞に「それでも自分たちは戻る」と原発の避難地域になっているところへの想いを綴っているのも読ませてもらった。現実は厳しいことも我々は知っている。

厳しい現実の中でどうやって希望を回復し、非可逆的な方法になるが、再生を図っていくか、それを考える。

3/13の日曜日。まだ混乱がある中、Motion Blue YokohamaではHolly Coleがライブを行った。3/12はさすがにMotion Blueがある赤レンガ倉庫が全館営業停止になっていたのだが、3/13は通常通り営業された。チケットを持っていた私は、同僚が必死に災害時対応をしている中、世の中が「そんな状況じゃないだろう」と言っているような中、行くかどうか非常に迷った。だが、そんな中でもライブを中止しなかった彼女に是非逢ってみたかった。

会場に行くまでずっとネットにアクセスし作業をしていたが、現地に着いてみると、そこはとても2日前に大地震があった日本とは思えないくらいに平和な場所だった。春を感じさせるような晴天。海が広がり、カップルがテラスで食事をとる。ネットにアクセスしない限り、震災があったことなど信じられないほど。

会場内でもそのような話題は一切でない。しばらくしてHolly Coleが登場する。何か言うと思ったが、何も言わずにエンターテイナーに徹する。結局、彼女は最後まで一切震災については口にしなかった。

ただ、日本が大好きだと言いながら、好きな曲だと紹介して「桜(森山直太朗のカバー)」を泣きながら歌った。アンコールでの「Calling You」もおそらく泣いていたのではないか。

人はどうして良いかわからないときでも心を伝えることは出来る。
私はあなたを呼んでいるわ
ねぇ、聞こえるんでしょう?
あなたを呼んでいるの

3/11からもうすぐ半年。どうして良いかわからない。

だが、村上龍さんが震災直後にニューヨーク・タイムズに語ったように、実は震災前から日本においては希望は失われていたのかもしれない。将来に夢を持てない若者。価値観の崩壊に戸惑う大人たち。震災は全てを失わせたが、新たな希望の種をくれたのかもしれない。
全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。

危機的状況の中の希望

2011年3月2日水曜日

Elvis Costello Live at Bunkamura Orchard Hall

悪いがしばらく誰も話しかけないで欲しい。頭の中に充満したCostelloの声を消したくない。

生々しいというのはこういうことを言うのだろう。いや、「生々しい」という言葉が適切とも思わない。だが、会場に響き渡るCostelloの声、そしてギターの音は時に繊細であり、時に荒々しく、感情豊かに聴く者に迫る。

Costelloが来るというだけで喜んでチケットを買ったのだが、会場に入ってステージを見るまではソロだということを知らなかった。いったいどれだけマヌケなのか。ソロの彼を聴くのはもちろん初めてだが、バンドに負けずとも劣らない迫力と多彩な伴奏をギター1つでこなしてみせる。決して超一流というわけではないのだが、彼のギターがまた魅力的。ボーカルをこれ以上ないくらいに引き立てる。

途中、肉声で歌ったが、なんて声が通るのだろう。年齢をまったく感じさせない。また、会場からのリクエスト(「Monkey to Man」)に「Why not?」と気軽に応える。歌を聴かせる、楽しんでもらいたいという真のシンガーの姿を見た気がする。

「Here's the song I hate」と紹介して歌い出した「Everyday I write the book」はぶっきらぼうな演奏ながら聞き入ってしまったし、多分本人は歌いたくなかったのではないかと思う「Smile」と「She」のメドレーではうかつにも涙を流しそうになる。

アンコールは果てしなく続くかと夢見るほど多くしてくれたが、Nick Loweの曲が続いたときには24年前にタイムスリップしてしまった。新宿厚生年金ホールだったと思うが、その時のライブはNick Loweがギターで参加していた。最後は「Pump it Up」でノックアウト。

ごめん。しばらく僕には話しかけないで欲しい。

* 追加: http://www.elviscostello.info/wiki/index.php/Concert_2011-03-01_Tokyo にセットリストがあった。

2011年2月27日日曜日

夜が夜だったころ

僕らの世界から夜が消えてどのくらいたつだろう。

僕が学生だった20数年前、夜も11時を過ぎると寝る時間だった。もちろん、高校生ぐらいから友人宅に泊まっては深夜を過ぎても話していたり、街を出歩いていたりしたが、それは寝静まった時間に例外的な行動をとることに対する憧れであって、実際、静まり返った街は人が休息をとるためのものだった。

いつからだろう、夜が夜でなくなったのは。

千葉都民と呼ばれる都市でも80年代後半ごろには夜の10時くらいまで開いている書店が出始めた。コンビニだって24時間営業するのがやっと一般的になり始めたころだったので、小さいとはいえ雑誌だけではなく文庫や新書まで買える書店が10時まで開いているというのがうれしくて会社から帰って車で良く行ったものだった。当時から活字中毒だった。だが、わくわくしていたのは夜に本が買えるということではない。むしろこんな夜に書店で立ち読みをしているという「非日常」を味わえるのがうれしかった。

「非日常」が「日常」になるのはそのすぐ後のことだった。

かつて「クロスオーバー11」という番組があった。夜11時から12時までの1時間NHK FMで放送されていた番組だ。NHK FMは12時で放送を終了していたので、まさにその日を締めくくる番組だった。



78年からスタートしたこの番組、僕はおそらくスタート当初から聴いている。10時から放送されていたサウンドストリートからずっとNHK FMにラジオをあわせたままで。

この番組のオープニングは、当時流行し始めていたフュージョン調のサウンドに素敵なナレーションがかぶる。
街も深い眠りに入り、
今日もまた 一日が終わろうとしています。

昼の明かりも闇に消え、
夜の息遣いだけが聞こえてくるようです。

それぞれの想いを乗せて過ぎていくこのひととき。
今日一日のエピローグ、クロスオーバー11
フュージョンはクロスオーバー音楽とも呼ばれていた。ハーモニクスでメロディアスに音を奏でるベースとこのナレーションで、本当に夜の足音が聞こえてくるようだった。

2011年の今、夜は夜でなくなった。コンビニや深夜営業の各種店舗。便利さに慣れてしまってもう離れられないし、それが悪いとは言わない。でも、時に思い出す。夜が夜だったときのことを。

「もうすぐ、時計の針は12時を回ろうとしている。今日と明日が出会う時」だ。もう寝よう。




2011年2月6日日曜日

加害者家族

犯罪には被害者と加害者がいる。もちろんどんな理由があるにせよ加害者は罪を償わなければいけない。加害者家族にその責任の一端があることも多いだろう。

しかし、加害者とともに被害者およびその家族への謝罪を行い罪を償おうとしている加害者家族を社会的に抹殺してしまうのは行き過ぎではないか。

この本ではそのような例が紹介されている。



本書の中でも、加害者の父親が被害者の名前を知らなかった例などをあげており、本当に反省が十文なのか、きちんと事件と向き合っているかなどを厳しく指摘している。栃木リンチ殺人事件などの例では家族が何故犯罪を発見出来なかったのか、阻止できなかったのかを問うている。紹介しきれなかった事例にも無責任な加害者家族が多くいるであろう。

だが、きちんと向き合っている家族まで行き過ぎた社会的制裁を加えるのはどうだろう。行き過ぎた制裁は最近ではネットによる善意もしくは善意を超えた無責任な冷やかしから発生することも多い。メディアスクラムというメディア側の加熱する報道も問題だ。

特に心が痛むのは、どう考えても本人には何の責任もない加害者の子供たちや友人たちだ。日本人が陥りやすい、安定した関係を壊す人を排除する力がここでも働く。

加害者家族に対して他国ではどのように向き合っているのか。米国の例が本書で紹介されている。なんと加害者家族に対して励ます手紙が多く寄せられているという。犯罪は本人とそしてその家族だけでなく、社会や地域の問題という意識があるのだろうか。

事例が多く紹介されるものの、これといった結論や提言はない。ただ、今まであまり知られていなかった加害者家族の実情を知ることが出来るという意味では貴重な一冊。発言する権利さえないのではないかと考えている加害者家族が多いらしいのだが、存在さえ消されてしまっているという状況は健全ではない。被害者家族に対する反省や補償を行っていくことにもプラスになる方向でもっとその存在が見えても良いのではないかと思う。

参照: 少年A -少年A 矯正2500日全記録 & 「少年A」この子を生んで・・・父と母悔恨の手記

2011年1月4日火曜日

I/O

ランニング時の呼吸法で良く言われるのが、吸うよりも吐くことを意識しろということ。

吐かないと吸えない。

実はこのことは前にもこのブログで書いたことがある。

吐いて 吐いて 吐いて 吸う

なんというタイトルだ。もう3年前だから、時効か。タイトルも中の文章もちょっと恥ずかしい。ただ、内容については今も同じことを思っている。

人の話を聞くときなど、質問をするつもりで聞くと良い。質問をするには、その人の話を集中して聞かなければならない。「それは先ほどもお話ししましたが」と回答の際に言われるような恥ずかしいことがあってはならない。「良い質問ですね」で始まったら素直に喜ぼう。このように回答が始まる場合は、本当に良い質問か、回答者が答えるのに窮していて回答を頭で組み立てている時だ。いずれにしてもあなたの質問は話を聞いた上でないと出来ないものであるはずだ。質問じゃなくコメントするのでも良い。

「話を聞く」ということはアウトプットを意識した上でインプットをすることだ。

実はこのアウトプットを意識した上でインプットをするということが外国語学習で重要だ。良く英語学習などで、リスニングやリーディングばかりでなくアウトプットであるスピーキングやライティングを重視すべきだ、日本の英語学習はそこが欠けているなどと言われる。だが、第二言語習得の研究においては必ずしもアウトプットを増やすことが能力の向上に寄与するわけではないことがわかっている。やはりインプット、それも多量のインプットが必要である。ただ、どこぞの教材にあるように、単に流しっぱなしにして浴びているだけでは効果はない。アウトプットする可能性がある状態でインプットすることが必要だとされている。そうすることでインプットの質が高まる。集中して聞くことになるし、わからないものは文脈から推測し補うなどして理解しようとする。実際にアウトプットしても良いし、しなくても良い。

一方、アウトプットのための基礎的な訓練は必要であるが、一昔前に流行ったひたすら単純な文型を単語を置き換えて繰り返すことはさほど効果がないと言われている。言語間の距離のある他言語を発音するための訓練としては意味はあるため、日本人が英語を習得するために基礎訓練として必要なものではあるが、それさえ行えば十分というものではない。

外国語学習の科学」の書評でこの本を勧めておきながら具体的な外国語学習方法については一切触れなかったら、苦情 ;-) が来たので、1つだけ紹介した。これ以外については是非本を読んでみて欲しい。

繰り返しになるが、外国語学習だけじゃなく、すべてのことでアウトプットを意識すること。これお勧め。


2011年1月3日月曜日

外国語学習の科学



外資系人生を歩んでいるのだが、その割にちっとも英語がうまくならない。謙遜しているのではなく、どっかで進歩が止まってしまったようにしか思えない。もしくはモチベーションが維持出来ていない。

外資系に入ったのもの偶然のようなものだから、学生時代などはもっとひどかった。英語教育に力を入れている中高一貫校に入ったので、英語に対する拒否反応こそは無かったものの、実際には文法も語彙数もリスニングもスピーキングもすべて実践にはほど遠かった。

それでもどうにか外資系でクビにならない程度に仕事できているのは、それなりに努力してきたからだ。ずぼらな性格を自分でもわかっているので、英語を聞いて話さなければいけない環境に自分を追い込むことで英語力の向上を目指してきた。週に1回は海外のオフィスとテレコンをやるようにしてみたり。

これは「道具的動機付け」と呼ばれるもので、実利的な目的のために努力することだ。

一方、「統合的動機付け」と呼ばれるものもあり、これはその言語が用いられている文化に対する興味などから外国語学習に取り組むことだ。

このように外国語学習の習得に向けての研究の状況をまとめたのが、「外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か」だ。

この本は言う。「国際的な競争力を強化しなければいけない状況の中で、外国語でのコミュニケーション能力向上というのも戦略的に重要なものである。果たして、国はどの程度それに対して投資を行っているか」と。

たしかに、今の中高での英語教育は私のころと大差ない。私が卒業した学校はネイティブの先生が常にいたし、NHKのラジオ講座などを使ったリスニングとスピーキングの授業なども組み込まれていた。ほかにもこのような取り組みを始めていた学校はいくつもあったことと思う。

だが、それから20年。当時と今とでどの程度日本人の英語力は向上したのだろうか。諸外国と比べてどうか。必ずしも成功しているとは言えないだろう。

これがビジネスだったら、どっかで抜本的な見直しが入っているはずだ。20年も成果のあがらない事業をやり続けるほど悠長な市場はどこにもない。

国際競争力強化と言いながら、そのために一番必要なソフトスキル面の強化を怠っているのではないだろうか。

この本では、第二言語(SLA)習得のための研究が紹介され、そこからわかった現時点でのもっとも効果的な学習方法が解説される。「科学」とタイトルにつけられているだけあり、仮説と実証に基づく科学的なアプローチであり、言われてみると思い当たることも多い。

すでに何人かの人にお勧めしている(で、その人たちは購入しているようだ)が、この本はお勧め。読み物としても面白い。

2011年1月1日土曜日

アスリートと生

ここ1年くらいすっかり走ることに夢中になっている。

走ることが中心の生活とまではいかないけれど、走るための時間を作ること、快適に走ることが生活のかなり重要な位置を占めるようになってきている。

たとえば、好きなお酒は今でも好きで飲むことは飲むのだけれど、以前のように次の日に残るようなことはかなり少なくなっている。特に、金曜日の夜の深酒は避けるようになっている。せっかくの週末を二日酔いで潰すようなことはしたくない。イベント主催者か飲食店経営者かと思うほど、天気も気にするようにもなっている。

なんで走るのか。

そう聞かれても明確に答えられないのだけれど、走っていると気持ち良いからというのは大きな理由の1つだ。走るのはたしかに辛い。だが、体が温まってきてちょうど良いペースになったときは苦しいのだけれど気持ちが良いという不思議な状態になる。これが良く言われるランナーズハイという状態だろうか。確信はできないが、きっとそうだろう。走り終わった後の爽快感も捨てがたい。ジョギングやランニングの本にも良く書いてあるが、人間は基本的に体を動かすこと、汗を流すことを快感に思えるDNAが組み込まれている。それを実感できる。

体との対話が可能になったというのも最近良く思う。体調が悪いとか良いとかというレベルであれば以前から自然に気づいていたが、長距離を走るというのはやはり体への負担が大きい。以前よりももっと体の状態を気にするようになった。良く草食系だとか乙女系とか言われ、全力で否定はするのだが、たしかに風呂で半身浴をしたり、寝る前にストレッチをしてアロマオイルでセルフマッサージをしているような男性は少ないかもしれない。膝を良く故障していたから始めた習慣だが、これがなかなか気持ち良い。

走りにはフィジカルな部分だけではなくメンタルな部分も影響する。自分の心の状態とも以前より向きあうようになった。また、快適な状態で走っているときには走っているということ半ば忘れ、走りながらいろいろと考えを巡らすこともある。一種の自分との対話である。

ここまで自分と対話したことがあったろうか。

いつまでこのマイブーム(死語?)が続くかわからないが、今はすべての人に勧めたい。走ること。体を動かすこと。自分と対話すること。



金哲彦さんというランニング指導者がいる。ランニング本をいくつも書いているので、書店に行けば1冊は彼の本を見つけることができるだろう。私も彼の本はいくつか読ませてもらった。たとえば、「3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから」。これは名著。新書だが、これを読めばランニングの魅力に始まって初心者からある程度の経験者までの的確なアドバイスを得ることができる。

その金氏が実は大腸癌にかかっていたことをつい最近知った。彼が生い立ちから発病、そして闘病から復帰、走ることに対しての思いを書いたのが「走る意味―命を救うランニング」だ。3時間台で完走するマラソン」がちょうど復帰直後に書かれた本だということもこの本から知った。



ランス・アームストロング氏 も癌から生還したアスリートだ。彼は選手として絶頂期を迎えようかとする中、末期の睾丸癌であることが判明する。生存率 20%以下(実は2%以下だったとも言われる)という危機的な状況から奇跡的に生還し、ツール・ド・フランスで優勝する。自身によって書かれた「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」は彼のその復活までの道が自らの言葉で書かれている。原題が「It's Not About the Bike」であるのだが、そのとおりこの本は自転車競技についてが中心ではなく、彼の「生」についての考えが書かれている。2年ほど前に友人のブログで紹介されていてからずっと気になっていたけれど、やっと読むことができた。本当に名著。

Blackcomb (黒こんぶ) の日記 ただマイヨ・ジョーヌのためでなく

彼が治療を開始したころに多くの人から手紙やメールをもらったが、その1つに次のようなメッセージがあった。
「君はまだわからないだろうけど、僕たちは幸運な人間なんだ」

何を馬鹿な事をと当然は彼も当初は反発する。だが、生還してからこの意味がわかる。

すべての人は生かされている。生きる意味をそれぞれ持っている。癌との戦いはそれを教えてくれるものだった。

ランス・アームストロング氏が、金氏が何故走るのか。走ることで何を伝えているのか。きっとそれは生きることの意味を考えることと同じだろう。

彼らとは比べるまでもないが、私も昨年に検査で異常が見つかり、一時は(大げさだけど)死が身近に感じられた。だからこそ、彼らの言葉が重く感じられる。生きる意味、忘れないようにしたい。趣味のランニングにしか過ぎないが、それでも自分との対話を始められたことに感謝したい。

コメント

このブログはコメントにHaloscanというものを使っていたのだけれど、昨年にサービスを停止してしまって、引き継がれたサービス提供企業がいろいろな意味でいけていなかったので、コメントをBloggerオリジナルのものに戻しました。

Trackbackが使えなくなったけれど、もうあまりTrackbackの重要性は感じ無くなっているので問題ないでしょう。

それよりも、今までのコメントが私の不注意により消えてしまった。ごめんなさい。