「サイバージャーナリズム論 「それから」のマスメディア」をようやく読んだ(実際に読んだのはシドニー出張のときだから、数週間前のことだが)。
すでに読んだ類書(今回の著者陣の中が書かれたものもある)と重なる部分も多かったのだが、逆に本書によって初めて知った事実もあった。このようなことがあるので、いくら似たような本だからと侮ってはいけない。正直言うと、すべてをカバーするようなスーパーセットの本があったらどんなに便利だろうと思うが、できないことは望むまい。
従来のメディア企業が一体として扱っているコンテンツとコンテナーを分離して考えるべきというのは多くの人が言っているが、本書でその発信源を知った。AP通信社のトムカーリー氏だそうだ。私もいろんな場所でこの概念を使わせてもらっているので、この場を借りてお礼を言おう(氏がここを読むことはとても思えないが ;-))。私はこれを発展させて、コンテンツとコンテナー(もしくはフォーマット)、それとコンベアの3層構造で今日のメディアは成り立っているのではないかと考えている。コンテンツとは素材そのもの、コンテナー/フォーマットというのはそれを配信する形式、そしてコンベアとは実際の配信経路だ。紙媒体として新聞を例にとった場合、記事に書かれている文章そのものがコンテンツで、組版がコンテナー/フォーマットであり、宅配制度により自宅まで届けられるその流通網がコンベアとなる。同じ記事を新聞社がポータルサイトを通じて配信する場合には、コンテナー/フォーマットがポータルと新聞社の間で取り決められたXMLなどのフォーマットになり、コンベアがインターネットである(新聞社からポータルサイトまでは専用線のこともあるが、多くはFTPやHTTPであろう。また、ポータルサイトから一般ユーザーまではインターネット上のHTTPだ)。従来の紙媒体の場合はすべてを新聞社がコントロールしていたが、後者のインターネットを通じた配信の場合はいくつものプレイヤーが介在することになる。AP通信社のトムカーリー氏が言うように、コンテンツに戻るというのは、複数プレイヤーが介在する場合の定石だろう。
この複数レイヤーによる分業化というのはかつてのコンピュータ業界が通った道だ。かつてIBMや(私の所属した)DECは総合コンピュータベンダーという名の下に、CPUからHDD、さらにはネットワーク製品まですべて自社で生産していた。NIH症候群という言葉が生まれたのもIBMやDECのような企業があったからだ。NIHというのは、"Not Invented Here"の略で、「ここで発明されたものではない」から採用しない/たいしたものではないというような考えをすることだ。このモデルは垂直統合モデルと呼ばれ、一時は隆盛を極めたが、90年代以降のUNIXやワークステーション、PCそしてWindowsの台頭により、各レイヤーに特化したプレイヤーの組み合わせによりシステムを構成する水平統合へと移行していくことになる。
メディア業界でも同じことが起き始めているように思われる。
ただ、本書でも指摘しているように、日米の新聞社のビジネスモデルに多くの違いがあるため、日本の新聞社はおいそれとコンテンツ中心のビジネスモデルに移行できない(簡単に言うと、米国の新聞社は収入の大半が広告収入であるため、紙媒体の収入からネット広告の収入へと移行するという路線で考えれば良いが、日本の新聞社は新聞の販売収入への依存度が高いため広告を主体とするビジネスに移行できない)。渡辺千賀さんがブログに「アメリカの新聞の凋落」という投稿をされていて、そこで米国でも新聞がNPOなどにならない限り生き残れないのではないかと書かれているが、さらに厳しい日本の新聞社の未来はどうなるのだろう。
本書は複数の著者による執筆である。各執筆者が章ごとに執筆しており、どの章もなかなか力作なのだが、個人的には森健氏の第五章『ウェブがもたらす「偏向」と「格差」-「ハブ」と「ベキ法則」のリタラシー-』が特に面白かった。
サイバージャーナリズム論 「それから」のマスメディア (ソフトバンク新書)
歌川 令三 湯川 鶴章 佐々木 俊尚
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ちなみに、この間、やっと湯川さんともご挨拶することができたので、本書の執筆者5名のうち3名までお会いしたことがある。だから何だって言われるかもしれないが、なんとなく親密感が沸いたので書いてみた。