2008年4月15日火曜日

サンフランシスコの美術館巡り(SFMOMA、Legion of Honor and de Young)

またかと言われそうなのだが、本社に出張中(今日で終わり)。2週間ほどの滞在なので、週末を利用して、サンフランシスコの美術館巡りをしてきた。以前書いたように、Asian Art Museumは言ったことがあるので、今回はそれ以外をピックアップ。

SFMOMA

まずは、SFMOMA(San Francisco Museum of Modern Art:サンフランシスコ近代美術館)へ。ホテルを遅めに出てしまったのだが、かえってちょうど良かった。というのも、開館が11時。予定通り早くホテルを出ていたら、かなり待つことになっただろう。



残念ながら、中は撮影禁止。ロビーから上のフロアまでを一望できるところでの撮影は大丈夫だったので、撮った写真がこれ。ニューヨークのMoMAよりも若干小さい感じ。メトロポリタン美術館よりは全然小さい。朝早かったためか、あまり混んでいないので、ゆっくりと見れる。



館内では、運良く、Paul Kleeの作品が展示されていた。学生時代に世田谷美術館で加古隆がKleeをモチーフとした小コンサートを開いたこととか思い出す。確かあの時も何かアルバムを出していたはずと思って探したら、次のアルバムが見つかった。

いにしえの響き-パウル・クレーの絵のように-

2003年発売なので、あれと思ったが、再発売されたものらしい。当時のことが懐かしくなったので、帰国したら買うかも。ちょっと話が脱線したが、Kleeの絵の鮮やかな色彩と線の使い方が好きなので、しばし絵を眺める。これ以外にもMatisse and Beyondという展示もやっていた。

ただ、ニューヨークのMoMAに比べると、本当にもっと現代アートを中心とした展示がされている。唯一写真撮影を許してもらえたのが最上階にあったこれ。



これは光の反射屈折を利用したもので、逆方向からは黒色に見える。


Olafur Eliasonの作品。ほかの彼のSFMOMAに展示されている作品も、彼のウェブサイトで見ることができる。

【2017/08/15 更新】Olafur Eliasson - 96 Artworks, Bio & Shows on Artsy にも作品がいくつか紹介されている。

参考:
Legion of Honor

昼食をSFMOMAの向かいにあるYeraba Buena Gardenの日本食レストランで食べた後、車でLincoln ParkにあるLegion of Honorに向かう。米国で一番美しい美術館と言われているだけあり、Lincoln Parkの丘からの景色、そして外からの美術館の姿とも素晴らしい。





非常にゆったりとした作りになっていて、じっくりと作品を鑑賞できる。



Picassoだとか



Monetだとか



作品数は先にあげたニューヨークの美術館に比べると少ないものの見所にある作品はそこそこある。なんといっても、広い展示フロアでゆったりと時間の流れるのを感じられるところが良い。

二つも美術館を見て、今日はもうおなかいっぱいと思っていたのだが、チケットを見ると、Legion of Honorとde Young Museumは同じ日であれば両方見れることになっている。夕方からMountain Viewで食事の約束があるのだが、急げばまだ間に合いそうということで、次にGolden Gate Parkにあるde Youngへと。

de Young Museum

de Young MuseumはGolden Gate Parkの中。車で行って、そのままいそいそと駐車場から直接館内に入ってしまったので、建物の外観はわからず。次回行くことがあったら、ちゃんと地上に出てみよう。



de Youngでは本当に時間がなくて、急ぎ、興味ある展示だけを見た(作品を見て、心を揺さぶられるものがあったら、しばしその前で佇むという形だ)。

Anna Elizabeth KlumpkeのAmong the Liliesの可憐さに目を奪われたし、



Yang MianのStandard-Olayも現代的な東洋女性の儚げな感じが気に入った。





だけど、なぜ、血のような赤い線を入れてあるんだろう。Yang Mianのほかの作品も同じような線が入っている。何かを示しているんだろう。

時間が無かったので、かなり駆け足でde Youngは鑑賞することになってしまった。今度改めてゆっくり来よう。

SFMOMA, Legion of Honor and de Young

2008年4月7日月曜日

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

私の友人で、「XXXという仮説があって」というように「仮説」という言葉を多用する人がいる。そんなこともあって、この本を読んでみた。以前から気になっていたんだけど、なぜか伸び伸びになっていたので、友人に感謝。

書いてあることは、極めてシンプル。情報を網羅的に集め、分析し、結論を出すというオーソドックスな考え方を「網羅思考」と呼ぶとすると、その反対に多少乱暴でも良いので持っている情報だけで仮説を立て、それを検証していく考え方を「仮説思考」と呼ぶ。

本書の中でもビジネスパーソンに必要なものは、1) 先見性、2) 決断力、3) 実行力であると述べている。このうちの最初の2つに「仮説思考」を用いたスピーディーな処理が助けになる。仮説にも2つの種類の仮説がある。問題発見の仮説と問題解決の仮説である。上の1)と2)にそれぞれ当てはまると考えてよい。

本書はこの「仮説思考」の考えを説明した後にさまざまシーンにおける「仮説思考」の使い方を解説する。読みやすいが、中身は薄くない。

考えてみると、ウェブ系の仕事の場合はテストマーケティングやエクスペリメント(実験)として、少し異なる機能やインターフェイスを持ったものを出し、それをユーザーに評価してもらい、公式の提供にまで持っていくことが多い。ABテストと呼ばれているものなどは代表的なものだろう。これこそ、まさに仮説を検証する作業にならない。ただ、これが実際に効力を持つのは、仮説を実証するまでの時間が限りなく速くできる場合のみだ。ネット時代において、成功の可否をわけるのはやはり組織の機動力の差なのかもしれない。

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法
内田 和成

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2008年4月6日日曜日

ゼロハリバートン(ZERO HALLIBURTON)ZRP27

前回のシドニー出張の際、帰国後に成田エクスプレスによる東京への移動中にスーツケースのキャスターが一輪脱落してしまい、修理ができなかったので、新しいスーツケースを購入した。

購入したのは、ZERO HALLIBURTON(ゼロハリバートン)のZRP27-BK。




本当はソフトケースを探していて、第一候補だったのが、PATHFINDER(パスファインダー)のTX2シリーズ。ただ、残念ながら、近くの繁華街の量販店数店では見つからず。あきらめて、黒光りするこれに決めた。何せ、また月曜日から出張なものだから、取り寄せや通販を利用することができない。もっと時間的に余裕があったはずなのだが、いつもぎりぎりにならないと動き出さない。仕事のほうはだいぶタスク管理できるようになってきたのだが、まだプライベートでは締め切り直前でないと動き出さないというのは変わらず。

で、このゼロハリバートンだが、なかなか良い。ポリカーボネイトという素材もなんだか不安だったのだが、店員いわくABS樹脂だけのものよりも頑丈とのこと。下手に硬いもののほうが割れやすいというのは納得する。ここ数年で2個以上もスーツケースを壊している私だが、今度は大丈夫だろうか。ゼロハリまで壊すとなると、これはスーツケース側の問題ではなく、扱う私の問題であることになる。はてさて。

再現された常盤平団地の一室-松戸市立博物館にて

シドニーから帰国したその週末になるので、もう2週間前になるが、松戸市立博物館に行ってきた。唐突に、なんでこんなところにと思われるかもしれないが、松戸市常盤平は私が小学校4年までを過ごした思い出の場所。父の墓と父方の先祖の墓が船橋市と松戸市にあるので、墓参りついで。

実は、この松戸市立博物館、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を観に行った後に次のような記事を見つけてから、いつか機会があったら行ってみたいと思っていた。
「松戸の博物館は結構すごいらしい」

という噂は前々から耳にしていた。松戸の博物館と言ってもガンダムミュージアムのことではない(※松戸のガンダムミュージアムは2006年に閉館しました)。松戸の博物館と言えば、もちろん松戸市立博物館のことである。

マイコミジャーナル 【コラム】趣味的第一種接近遭遇 24 団地! ALWAYSで三丁目の夕日な博物館は松戸にあったの巻

この記事に書かれているように、博物館には1960年代の団地の一室がそのまま再現されており、その再現があまりにもリアルなために、すでに雑誌などで取り上げられていたらしい。雑誌も読まないし、テレビも見ない私はぜんぜん知らなかった。

博物館は松戸市の公園「21世紀の森と広場」に隣接した場所にある。この公園には数年前に一度来たことがあったのだが、博物館にはまったく気づかなかった。ちなみに、この公園は私が子供のころザリガニやゲンゴロウを捕まえるために泥だらけになって遊んだ千駄堀という場所に出来ている。千駄堀で検索してみると、自然を保護するためにいろいろな話し合いが持たれ、今でも市民の方の活動によって自然が支えられているようだ。



駐車場から公園の入り口を横に見ながら、道路をくぐる形で博物館に行くことになるが、そこにも素敵なトンネルが。





このトンネル内の壁の照明、行くときはグリーンだったが、夕方の帰るときには赤に変わっていた。



博物館の入り口は下のような感じ。ごく普通の小規模な博物館という構えだ。



中に入ると、松戸市や千葉県の歴史の解説をする展示から始まる。そういえば、松戸には貝塚がいくつかあったことを思い出した。小学校のころ近く(確か、八柱のほうだったかと思う)にあった貝塚に行ったことがあったはずだ。



時代をたどって、ついに、昭和、そして戦後の展示となり、再現された常盤平団地の部屋が現れる。まずは常盤平団地の案内図。そうそう、こういうのが実際にあった。私が住んでいたのは、E-17。前に東集会所がある棟だ。小さな公園もあって、友人と缶けりや木登りをして遊んだ。



案内図の隣に再現された団地の一角が登場する。ここでは長回しで録画したビデオがあるので、そちらを貼っておこう。写真はマイコミジャーナルのコラムか私のPicasaウェブアルバム(ちょっと失敗してピントがあっていないのが多いのだが)を見て欲しい。



黒電話、アラジンの石油ストーブ、平凡社の百科事典…。いっきに記憶がよみがえった。ただ、私が住んでいたのは、ここで再現されている2DKではなく、3DKだった。両親とは別に私と姉の部屋があり、そこに二段ベッドが置かれていたのだ。良く考えると、小学生だった私はともかくとして、すでに中学から高校に行こうとしていた姉が良く弟と一緒の部屋で我慢してくれていたものと思う。

帰りに21世紀の森と広場でしばし昔の千駄堀を思い出しながらゆっくりと川を眺める。



良く冗談で、引退したら、もう一度常盤平に住みたいと言っていたが、あながちそれも悪くないかもしれない。

松戸市立博物館 2008年春

2008年4月5日土曜日

ポケットに名言を

私は1人の作家を集中して読む癖があるが、この間、代表作品の多くをそろえてしまったのが、寺山修司氏だ。「書を捨てよ、町へ出よう」を購入したときに、いくつか氏の作品を購入したのだが、本書もそのひとつ。

小説や詩集、さらには映画や流行歌などから寺山氏が気に入った名言を紹介しているのが、本書だ。

私は昔から名作家は名コピーライターであるという持論を持っているほど、一言の言葉の持つ威力を信じてる。信じているというよりも、そのような言葉にノックアウトされ続けた人生を歩んできている。

中高一貫校(昔はこんな言い方しなかったと思うのだが)に通っていたとき、なにせ高校受験も大学受験も無いのだから、永遠に続くかと思うほど暇な時間をギターを弾くか本を読むかして潰していた。今考えると、あの時に少しでも数学をちゃんと勉強しておけばよかったとか、クラスメートが当時流行し始めていたポケコン(ポケットコンピューター。確かシャープ製)でプログラムを組んだりしていたときに私も混ざれば良かった(私は友人が組んだゲームプログラムで遊ぶほう専門だった)などと後悔しきりだが、いずれにしろ人生にあまりない時間がありあまるという状況で私はロックとジャズと本に囲まれた生活をしていた。

今も当時もあまり変わらないのだが、乱読派だった私は本当にあらゆるジャンルの本を読んだ。当時のベストセラーから、コミックから、私より少し前の世代が読んだような作品。雑誌も朝日ジャーナルから諸君まで(わかる人にはわかると思うが、通常この2つの読者は重ならない)。残念ながら多くの本はすでに処分してしまったので、どのような「名言」を私が愛していたかをすべて思い出すことができないが、私が何かにつけて口に出していたような「名言」は次のようなものだ。
見つけたぞ、
何を?
永遠を、
それは太陽に溶ける海だ。

ランボー-地獄の季節 (岩波文庫)より
ランボーは21歳で最初で最後の詩集「地獄の季節」を発行した後、二度と表舞台には現れなかったという人生そのものも詩的な人なのだが、当然、最初からランボーを知っていたわけではなく、村上龍氏の「69」から知った。「69」については以前にこのブログでも書いたことがあるが、村上氏の小説の中でも特に好きなものの1つだ。

タイトルそのものにやられてしまった小説もある。
三田誠広氏は芥川賞を取った「僕って何」も好きで、その後に書かれた「赤ん坊の生まれない日」もむさぼるように読んだ。題名も忘れてしまったが、氏が浪人時代休学していた時期に書いた作品もどこからか出されていて、それも友人と回し読んだ。今は著作権保護期間の延長を唱えていてネット住民からは目の仇にされている同氏であるが、当時の学生運動の余韻の残る時代の中で、ひときわ輝いていたように思う。「考えるウォークマン」はちょっと毛色の変わった作品で、中に確かコンピュータアルゴリズムを思わせるゲーム理論の話が出てきたように記憶している。これが私がコンピュータに興味を持つきっかけの1つになった。確か、これを読んだのはすでに大学に入ったころだったと思う。ちなみに、この「考えるウォークマン」だが、中古でもかなりの高値がついている。千歳烏山の女子寮の喫茶店に入り浸っていた私がこの本をあげたRさんは今どうしているんだろうか。

村上龍氏についてはいくら語っても語りつくせないし、ここにあげただけでなく多くの作品で影響を受けている。「69」の中に出てくる学生運動で使われる「名言」もステキだ。
「想像力が権力を奪う」
「予定調和拒否せよ」

40歳も過ぎて、このような言葉をIM(Google TalkやSkype)のステータスメッセージにしていて大丈夫かと自分でも思うが。。。

書き出すときりがないので、ここら辺でやめるが、この寺山修司氏の「ポケットに名言を」にもこのような「名言」が満載だ。本当に少しだけだが、私が特に気に入ったものを引用して、紹介を終える。

うつせみの世は夢にすぎず、
死とあらがいうるものはなし

フランソワ・ヴィヨン「遺言詩集」


貞淑とは情熱の怠惰である。

ラ・ロシェコフォ伯爵「箴言」


女をよくいうひとは、女を充分知らない者であり、女をいつも悪くいうひとは、女をまったく知らないものである。

モーリス・ルブラン「怪盗アルセーヌ・ルパン」


ぼくは期待している。女というものは、男によって文明化される最後のものであろうと。

ジョージ・メレディス「喜劇論」


人はその煩悶の始末をただ理性にばかり委せるために心を乱すことの方が多いのである。

アイザック・スターン「センチメンタル・ジャーニー」


恋における貞節とは欲情の怠惰にすぎない。

アンドレ・レニエ


幸福とは幸福をさがすことである。

ジュール・ルナアル


「どうか僕を幸せにしようとしないで下さい。それは僕にまかして下さい」

アンドレ・レニエ「半ばの真実」


想像力の消耗からも、人はその家庭を愛するようになってくる。

萩原朔太郎


天才とは九十九パーセントが発汗であり、残りの一パーセントが霊感である。

トーマス・エジソン


英雄のいない時代は不幸だが、
英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。

ベルトルト・ブレヒト「ガリレオ・ガリレイの生涯」


人類が最後にかかる、一番重い病気は「希望」という病気である。

「あゝ、荒野」
少しと言いながら、なかなか絞れなくて、結構引用してしまったが、本当にこれでも少しだけ。寺山氏の愛した多くのステキな名言が本当にポケットに入るサイズで収められている本書は、このような刺激的な言葉が好きな人にはお勧めだ。

ポケットに名言を (角川文庫)
寺山 修司

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書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫) 両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫) 幸福論 (角川文庫) 家出のすすめ (角川文庫) 寺山修司青春歌集 (角川文庫)
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サイバージャーナリズム論 「それから」のマスメディア

「サイバージャーナリズム論 「それから」のマスメディア」をようやく読んだ(実際に読んだのはシドニー出張のときだから、数週間前のことだが)。

すでに読んだ類書(今回の著者陣の中が書かれたものもある)と重なる部分も多かったのだが、逆に本書によって初めて知った事実もあった。このようなことがあるので、いくら似たような本だからと侮ってはいけない。正直言うと、すべてをカバーするようなスーパーセットの本があったらどんなに便利だろうと思うが、できないことは望むまい。

従来のメディア企業が一体として扱っているコンテンツとコンテナーを分離して考えるべきというのは多くの人が言っているが、本書でその発信源を知った。AP通信社のトムカーリー氏だそうだ。私もいろんな場所でこの概念を使わせてもらっているので、この場を借りてお礼を言おう(氏がここを読むことはとても思えないが ;-))。私はこれを発展させて、コンテンツとコンテナー(もしくはフォーマット)、それとコンベアの3層構造で今日のメディアは成り立っているのではないかと考えている。コンテンツとは素材そのもの、コンテナー/フォーマットというのはそれを配信する形式、そしてコンベアとは実際の配信経路だ。紙媒体として新聞を例にとった場合、記事に書かれている文章そのものがコンテンツで、組版がコンテナー/フォーマットであり、宅配制度により自宅まで届けられるその流通網がコンベアとなる。同じ記事を新聞社がポータルサイトを通じて配信する場合には、コンテナー/フォーマットがポータルと新聞社の間で取り決められたXMLなどのフォーマットになり、コンベアがインターネットである(新聞社からポータルサイトまでは専用線のこともあるが、多くはFTPやHTTPであろう。また、ポータルサイトから一般ユーザーまではインターネット上のHTTPだ)。従来の紙媒体の場合はすべてを新聞社がコントロールしていたが、後者のインターネットを通じた配信の場合はいくつものプレイヤーが介在することになる。AP通信社のトムカーリー氏が言うように、コンテンツに戻るというのは、複数プレイヤーが介在する場合の定石だろう。

この複数レイヤーによる分業化というのはかつてのコンピュータ業界が通った道だ。かつてIBMや(私の所属した)DECは総合コンピュータベンダーという名の下に、CPUからHDD、さらにはネットワーク製品まですべて自社で生産していた。NIH症候群という言葉が生まれたのもIBMやDECのような企業があったからだ。NIHというのは、"Not Invented Here"の略で、「ここで発明されたものではない」から採用しない/たいしたものではないというような考えをすることだ。このモデルは垂直統合モデルと呼ばれ、一時は隆盛を極めたが、90年代以降のUNIXやワークステーション、PCそしてWindowsの台頭により、各レイヤーに特化したプレイヤーの組み合わせによりシステムを構成する水平統合へと移行していくことになる。

メディア業界でも同じことが起き始めているように思われる。

ただ、本書でも指摘しているように、日米の新聞社のビジネスモデルに多くの違いがあるため、日本の新聞社はおいそれとコンテンツ中心のビジネスモデルに移行できない(簡単に言うと、米国の新聞社は収入の大半が広告収入であるため、紙媒体の収入からネット広告の収入へと移行するという路線で考えれば良いが、日本の新聞社は新聞の販売収入への依存度が高いため広告を主体とするビジネスに移行できない)。渡辺千賀さんがブログに「アメリカの新聞の凋落」という投稿をされていて、そこで米国でも新聞がNPOなどにならない限り生き残れないのではないかと書かれているが、さらに厳しい日本の新聞社の未来はどうなるのだろう。

本書は複数の著者による執筆である。各執筆者が章ごとに執筆しており、どの章もなかなか力作なのだが、個人的には森健氏の第五章『ウェブがもたらす「偏向」と「格差」-「ハブ」と「ベキ法則」のリタラシー-』が特に面白かった。

サイバージャーナリズム論 「それから」のマスメディア (ソフトバンク新書)
歌川 令三 湯川 鶴章 佐々木 俊尚

4797342404

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ちなみに、この間、やっと湯川さんともご挨拶することができたので、本書の執筆者5名のうち3名までお会いしたことがある。だから何だって言われるかもしれないが、なんとなく親密感が沸いたので書いてみた。

Google Talk chatback badgeを設置

Google Talk chatback badgetを設置。日時&相手によっては応答できないこともあるかと思われるので、あしからずご了承のほど願いたい。