母が亡くなった。享年91歳。
私は問題児だった。
幼稚園では喧嘩して友達の耳を齧ったり、怒られたら屋根に登り降りてこない。それでも、母が選んだその幼稚園は情操教育を行うことをモットーにし、子供の個性を尊重してくれていたため、厳しく怒られた覚えはない。
しかし、小学校に入ると、すぐに様々な問題を起こした。授業がつまらずに、すぐに飽きてしまうのだ。そんなある日、覚えたての口笛を吹きたくなり、授業中にも関わらず、吹いてしまう。先生に廊下に立っていろと言われて立つものの、いつまで立っても中に入れて貰えなかったので、あろうことかそのまま家に帰ってしまった。
授業をしているであるべき時間に息子が帰って来たのを見て、母がなんと言ったのかは覚えていない。私もどんな言い訳をしたのだろうか。いずれにしろ、母に連れられて学校に戻った私はしれっとそのまま授業に復帰した。
他にもガキ大将のような友達に脅迫状を送ったこともあった。小学校3年生の時だ。
ある朝、同級生と学校に向かっていると、母が学校から戻ってくるところとすれ違った。母は私のことで学校に呼び出されていたのだ。「卓也、◯◯君に変な葉書送ったか?」と聞く。私は脅迫状を送ったことなどすっかり忘れていたのだが、その一言で思い出し、「送った」と答えると、母は「一人でやったのか?」と聞く。同級生5人くらいとやったので、そう伝えると、「先生は卓也が一人でやったと言っている。こんなことをする子は及川君ぐらいしかいないと言われた。ちょっと先生に話してくる」と言い残して、また学校に戻った。
その日の朝会で、先生は脅迫状が送られたことをクラスで話し、誰がやったのかと聞く。私と共犯の同級生が手を挙げた。先生は少し驚いたようだった。我々は酷く怒られ、確か被害児童の家に謝りに行ったのではないかと記憶している。
単独犯でなく、共犯者がいることで罪が無くなるわけでもない。私が一人でやったのではないと知った母が凄い剣幕で学校に戻って行ったのを頼もしく思うとともに、不思議に思ったように記憶している。きっと、一方的に私だけが問題児であるように扱われるのを母は憤慨したのだろう。
他にも数えればキリがないほど、私は問題を起こしていた。今だったら、きっとなんかの病名が付けられていることと思う。
母はそんな私を暖かく見守っていてくれた。母は幼児教育の専門家だったこともあり、そんな人の子供がなぜ?と言われていたようだ。悔しかったと後から私に話してくれた。でも、私を頭ごなしに叱ることは無かった。
ある時、私がまた何か問題を起こして母が学校から呼び出された。さすがに怒られるだろうと思っていたら、少し遠くにある公園に遊びに行こうと言う。交通公園と呼ばれていた公園だったと思う。自転車で二人して出かけ、ひとしきり遊んで帰る道で、「卓也、もう少しお友達と仲良くしようね。みんなと一緒に行動できるのも大事なんだよ」と優しく諭してくれた。このあたりから、私も少しずつ集団生活に馴染んでいった。もっとも、小学校6年の時に通っていた進学塾の先生からも「この子はとんでもない大人になりますよ」と言われたので、小6の段階でも普通の子とはだいぶ違っていたのだと思う。
こんなふうに、学校から問題児だ、異常だと言われながらも、ずっと守り続けてくれた母だった。
2歳の時に大病をした。
敗血症という病気だ。当時だと乳児の死亡率が7割に達していたらしい。5歳上の姉は朝起きて、全身発疹だらけで高熱で苦しむ私を見て、助からないんじゃないか、幸が薄い子だと思っていたそうだ(7歳でそんなことを思うのか疑問なので、後年の創作ではないかとも思う)。
幸にして、数ヶ月の入院を経て退院したが、その後も病気続きだった。
小学校2年生の時には急性腎炎。2ヶ月くらい学校を休んだ。
中学校に入ると、鉄欠乏性貧血。学校こそ休まなかったものの、しばらく体育の授業は見学となった。
病弱だったこともあり、母は私に過保護だった。と同時に、健康オタクとなった。健康食品に懲り、ありとあらゆるものを摂取させられた。
紅茶キノコ、良くわからない水、その他にも名前も覚えていないものたくさん。この良くわからない水はとても不味く、そのままではとても飲めない。そこで、まず無塩の梅干しを口に入れさせられ、そこで口が麻痺している間に液体を飲み込むように言われた。それでも不味いものは不味い。しかし、繰り返しているうちに慣れてきた。
大人になってから、罰ゲームなどで濃い青汁を飲まされることがあるが、大概のものは問題なく飲める。躊躇なく、ごくごくと飲む。それもこれも、小さい頃に口にするのがもっと辛いものをいくつも飲み食べしてきたからだ。
母のこの試みが功を奏したのか、体が大きくなるにつれて、病気もしなくなった。
母は日本人離れした顔立ちをしていた。
子供としてずっと接していたので、人に言われるまで気づくことは無かったのだが、鼻は鉤鼻で、緑や茶が混ざった目の色をしている。
中学に入り部活の合宿で駒ヶ根に向かう時のこと、過保護だった母親は部の一堂が乗る列車と同じ列車で駒ヶ根にある親戚を訪ねることにした。わざわざ我々の車両まで訪ねてきて、顧問の先生に挨拶をしたのだが、中学生にもなって親が同伴するようで恥ずかしかった私は逃げてしまった。すると、しばらくしてから顧問の先生が近寄ってきて言った。「いくら親が日本人っぽくないからと言って、産んでくれた親を恥ずかしいと思うとは何事だ」と。自分の母親が日本人っぽくないと思ったことは一度も無かった私はびっくりした。
私は鼻はでかいが鉤鼻ではない。目の色は少しだけ茶色が混ざっていると言われることがある。母の体の一部は私に受け継がれているのだろうか。
母は終戦を満州で迎えた。ロシア(ソ連)兵から逃げるようにして、命からがら北緯38度戦を越えて帰国した。関東軍の大将だった祖父はシベリアに抑留され、帰国後すぐにGHQに連れて行かれた。
このような話は幼い頃から母に聞かされていたが、何度も聞かされているうちに飽きて、適当に聞いてしまっていたので、実は正確には覚えていない。母の話も系統だって話されたものではないので、ところどころに抜けがある。
東日本大震災後、私は福島以北の東北に初めて足を踏み入れたが、実は岩手や宮城は父と母の思い出の土地だ。父は岩手県花巻の出身で、母とは仙台かどこかで出会ったはずだ。母の生まれはどこだろう。聞いたはずだが忘れてしまった。父は私が学生の頃に亡くなっている。
晩年、母は施設に入っていた。その施設の人が入居者の思い出を聞き取り、文章にしてくれている。しかし、すでにその時、認知症が進んでしまっていた母は細かいことは話せなかったようだ。
元気なうちにもっと話を聞けば良かったと後悔している。
2012年に、「プロフェッショナル 仕事の流儀」というNHKの番組に出る機会を得た。企画自体は一年前の2011年から始まっている。
実は、この話を会社の広報から最初聞いた時、事の深刻さも理解しないままに軽く承諾してしまったのだが、その後、仲が良かったマーケティングの人から「卓也さん、聞いたよ。プロフェッショナルの取材受けるんだって。あれ大変だよ」と言われ、急に心配になった。そのマーケティングの同僚曰く、出演後は外を歩いていても声を掛けられるようになり、日常の生活にも支障をきたすらしい(実際にはそんなことは無かった)。
当時は頻繁に記憶を無くすほど飲み歩いていたこともあり、そんな衆人環視されるような生活はまっぴらだと、広報に「この間の話、やっぱり断りたいんだけど」と話したが、今さら断るなと4人くらいに囲まれて説得された。
この時、母のことを考えた。
母は私が取材を受けた雑誌や新聞の記事を、それこそ宝物のように保存していた。1990年代中頃、インプレスのDOS/Vパワーレポートという雑誌に書いたのが私の雑誌デビューだ。その雑誌を母は自分で購入し、いつでも手に取れる書棚に入れていた。他にも取材を受けた雑誌など、母は大切に持っていた。
東日本大震災が発生した2011年、震災復興活動をしながら、母を病院に連れていった。母の物忘れが、年齢によるものとしては酷いと思ったからだ。診断の結果はやはり認知症。すでに知らない場所に一人では行けなくなっていた。
少し前にテレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組に私が勤めていた会社が紹介され、私がスタジオでデモをすることになった。村上龍さんや小池栄子さんと少し絡ませて頂き、放映でもその場面が少し使われた。母はこの時も喜んでくれた。
認知症になってしまった母だが、また私がテレビに出たならば喜んでくれるのではないだろうか。もしかしたら認知症の進行も遅くなるのではないだろうか。そんな気持ちもあり、引き受けることにした。
翌年の2012年に番組は放映された。DVDに録画した番組を施設の母の部屋で一緒に見たのだが、その時はすでにテレビに息子が映っているという事実はわかるものの、ストーリーは追えなくなっていた。一緒に見ていても途中で飽きてしまい、関係ないことを話し始める。ただ、施設の方から「息子さん凄いわねぇ」と言われた時は嬉しそうに微笑んでいた。
少しは自慢できる息子になっていただろうか。
最期の数年は、下半身を怪我をして車椅子生活となり、行動が抑制されたことでさらに認知も進んでしまったのか、徐々に私や姉のこともわからなくなってしまっていた。わからないながらも行くと笑って迎えてくれる母。
しかし、新型コロナの影響で面会があまりできなくなった一昨年くらいから誤嚥性肺炎を何度か起こし、心不全も悪化した。都度、医者からも驚かれるほどの回復を示したので、今回もと僅かに期待していたが、それも叶わなかった。
火曜日の午後、見舞いに急ぐ途中、施設から息を引き取ったことを伝えられた。あと1時間。あと1時間早ければ寂しく一人で旅立たせることもなかったと悔やまれる。
今日、家族葬という形で母を見送った。質素だったが、家族や親族に囲まれ、心のこもった会になった。
母は音楽が好きだった。葬儀社の方から色々なオプションを聞く中で生演奏も可能と聞いたので、お願いすることにした。鍵盤とバイオリンの二重奏。楽曲リストから曲をリクエストできるので、その中から何曲か、そしてそれ以外でも可能ならばと数曲選んだ。父が生きていた頃に家族で行った映画のテーマ曲。母が3月になるといつもピアノで弾いていた幼稚園の卒園式で弾く曲。他にも何曲か。そして、絶対に外せなかったのが、東日本大震災のチャリティーソングとして作られた「花は咲く」。この曲を最初私は知らなかったのだが、母が良く口ずさんでいたことから知った。おそらく母は施設で合唱でもして覚えたのだろう。よほど気に入ったのか、私や姉の家に宿泊するために、施設との間を送り迎えする時などに車の中で歌っていた。この曲は絶対にお願いしよう。出棺の際にはこの曲にしよう。
参列される親戚のために、母の若い頃から今までの写真をお見せしたらどうだろう。そんなふうにも思い、Googleフォトなどを使ってフォトムービーを作った。母が好きそうな(著作権フリーの)楽曲も被せた。フリップタイプのChromebookをタブレットのようにして動画をループ再生し、デジタルフォトフレームのようにしよう。
葬儀の会場では、二重奏もデジタルフォトフレームも好評だった。
しかし、葬儀の場の演出などは所詮家族の自己満足に過ぎない。なぜ、生きているうちに音楽をもっと聞かせてあげなかったのだろう。なぜ、昔の写真をもっと見たりして、一緒に楽しまなかったのだろう。車椅子になる前や認知症がまだ進行していないときに時間はあったはずだ。
少し拗ねたように、そうよ、卓也。と怒っている母の顔が浮かぶ。
最後まで親孝行の息子にはなれなかったが、私は母の息子であったことに感謝している。母が母でなかったならば、私は今のように好きなことをして生きてはこれなかったろう。私が何をしても、いつも味方であってくれた母。
お母さん、ありがとう。