2009年3月22日日曜日

坂本龍一という奇跡

最近、私の中でにわかに坂本龍一ブーム。

Twitter友達と教授談義で盛り上がったり、アップルストア銀座の講演での過激な発言に対するネットの反応を読みふけってみたり。

Twitter友達へのメールなどでも書いたのだけれど、私は幸運にも、YMOをリアルタイムに体験している。今でこそ、教授やYMOは別格扱いされるほどの存在になっているが、登場した当時は必ずしもそうではなかった。少なくとも、私や私の周りでの評価は今と違っていた。

YMOがデビューしたとき、「お前が音楽なんてやっていたのか」って思うような同級生が急に、あの人民服のジャケットのLPをクラスに持って来た。後で知ったのだが、彼はずっとエレクトーンをやっていたらしく、その時にはかなりの腕のキーボディストになっていたようだ。ハードロックや当時のニューミュージックの話しかしていなかった私の周りにいた連中とは完全に別ドメインにいたやつだったのだが、そいつがYMOのすごさを語りまくる。FMやFM情報誌でも急に取り上げられるようになった。ただ、私の仲間内では、まだYMOが主流になることはなかった。当時はまだシンセサイザーは特別視があったし、何よりも彼らのサウンドは欲求不満の塊の中学生の怒りや不満のぶつけ先にはあまりにもクール過ぎた。

ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー

シンセサイザーと言うと冨田勲ぐらいしか一般には知られていなかった時代だ。一般の音楽とは別のまだ実験的なものという認識が強かった。クイーン(Queen)などもシンセサイザーを使っていないことをアルバムに明記していた時代だ。

同じ頃、テクノポップがブームとなった。P-Model、プラスチックス、ヒカシュー。どれも色物的で、パロディでやるには面白かったが、正直、彼らに熱くなった思い出はない。ただ、YMOも含めて、良く聴いていたとは思う。

また、私がギターをやっていたこともあって、大村憲司や渡辺香津美という名ギターリストが参加したアルバムやツアーの様子は気にして見ていたと思う。

そんな彼やYMOに対する評価が変わったのは、彼が忌野清志郎とのユニットを組んだり、彼のロックミュージシャンとの交流がメディアで報道されたりしたあたりからだ。私も高校に進学して、どんなジャンルの音楽も聞く、いわゆる雑食家となっていた。ジャズや毛嫌いしていたクラッシックまでも聞くようになっていたので、彼やYMOに対する距離感も当然のようになくなっていた。

そこにあの戦メリの登場だ。デビッドボウイとの共演も圧倒されたが、あのサウンドには本当に驚かされた。その後、エリッククラプトンがBehind the Maskをカバーしたり(後で、マイケルジャクソンのスリラーにも入る予定だったと大村憲司氏が語っていたのを聞いてびっくりした)、ソロでの数々の名曲で、熱狂的なファンという立場ではないものの、常に気になる存在になっていた。

今回、改めて、教授の発言を読み返してみたりしたのだが、彼はいわゆる天才なのだという結論に改めてたどり着いた。天才がカリスマ性を排除した1人の当たり前の人間としての発言をしている。そのため、ファンは熱狂し、それ以外の人は戸惑い、反発する。発言も正直、支離滅裂だ。一貫性もない。隠居した経済界の大御所の大きなお世話のような説教を垂れるのも困るが、このように一貫性のないメッセージを流されて戸惑う人も多いだろう。いわゆる大衆に対して迎合しておらず、その時々で思うことを口にしているのだろう。音楽だけが彼のメッセージを伝える唯一の手段なのだから、それ以外の発言はあくまでもその時々の彼の心情や思いがそのまま出たものと考えれば良い。

私は神話のある人に対して、無条件に信奉してしまう性癖がある。彼の神話はいくつもあるだろうが、私の琴線に一番響いたのは、彼の新宿高校のころのエピソードだ。彼が学生運動にも傾倒していたのはいろいろなところで紹介されているが、当時は大学だけでなく、高校でも学生運動が盛んだった。バリ封(バリケード封鎖)なども行われていた。その当時のことは、四方田犬彦氏の「ハイスクール1968」でも読んでみて欲しい(これは別途紹介したいほど好きな本だ)が、その中に出て来ている坂本龍一のエピソードを紹介しよう。
「青山高の英雄的闘争に連帯しよう」というのが、新左翼の高校生たちの合言葉となった。10月から11月にかけて、わたしの通学している教育大駒場の周囲でも、駒場高から奥多摩高校まで、次々とバリケード封鎖の旋風が生じた。新宿高では三年生の一人が、封鎖された音楽室でドビュッシーを優雅に演奏していたという、まことしやかな噂が流れてきた。大分後になって、その生徒が坂本龍一という名前であったと、わたしは知らされた。
この本が出版されたのはごく最近の2004年で、彼に対する私の中の評価が変わるのはそのはるか前なのだが、その頃からこのような彼の姿を私は想像していたのかもしれない。

我々は彼のような天才の音楽を聴く機会に恵まれているというだけでも、時代を共有できているものとして感謝すべきではないか。

ちょっと褒めすぎかも。