2012年10月19日金曜日

FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)

小学校のころは良く電子工作をした。

物心がついて、ドライバーを使えるようになったら、家中のネジがついているものを分解し、そして再度組み立てた。もとに戻せなくなるのが怖かったので、最初は簡単なものをおっかなびっくり触っていたが、そのうちに複雑なものも分解するようになった。

コンセントなども分解したりしていたので、今考えると、良く感電しなかったものだと思う。

そのうちハンダゴテを使えるようになると、自分で簡単なスイッチなども作るようになる。当時住んでいた場所の近くにマブチモーターがあったのが関係していたのかどうか忘れてしまったが、モーターを使った簡単な電子工作を良くしていた。買ったのだったのか、もらったのだったのか、小学生でも作れるキットを入手した。これらは特にハンダ付けは必要無かったのだが、それを元にちょっと凝ったものを作るようになっていた。

そのうちに、ラジオなどの電子工作の王道にもはまり始める。ラジオと言っても、トランジスタラジオだけではない。鉱石ラジオと呼ばれるゲルマニウム・ダイオードを使ったものも作った。こっちのほうが圧倒的に安かった。

電気への興味がさらに強くなったので、アマチュア無線の免許をとりたいと思い、父親に交渉した。小学校5年生か6年生のころだ。父親は、ただでさえ内向的であった私がさらに内向的になると思い、許可しなかった。絶対権力者であった父に反発できるわけもなく、アマチュア無線の免許は諦めた。中学受験などで忙しくなったのもあり、その後、電気への興味も薄れていく。

父を恨んだことなど一度もないが、それでも、もしあの時にアマチュア無線の免許を取らせていてくれたら、いや、自分がそれくらいで興味を失わないでいたらなどと思うことはある。

ものづくりへの興味は大学になって、コンピュータープログラミングという形で再度蘇ることになる。

***

先日、知人が経営するケイズデザインラボとイグアス、ロフトワークが共同で開始する「CUBE」のオープニングイベントに参加した。CUBEは3次元スキャナーと3次元プリンターを体験できるスペースで、FabCafeと同じビルにある。

参照:企業だけではなく個人も3Dプリンタ体験ができる(MONOist - atmarkit)

全身の3Dスキャンがわずか10秒ほどで終わり、それを元にした人間のミニチュアのフィギュアを3Dプリンターで製作できる。個人でも利用可能なこのような環境が手に届くところに来たことを実感できるイベントだった。

このようなパーソナルファブリケーションは我々に忘れていた何かを思い起こさせてくれる。それは、何故と疑問に思う心だ。

子供のころに、私がドライバーで周りにあるものを分解したのは何故か。それは不思議を解明したかったためだ。ものはどのように動くのか。子供であった自分のまわりには不思議がいっぱいだった。当時は、ちょっと勉強すれば、仕組みは理解でき、簡単なものであれば自分で改良できた。根気よく勉強すれば、一から作ることだって出来たはずだ。

ところが、それから数十年が経ち、技術の発展にともなって、ものを作るだけの人と使うだけの人に明確に分かれるようになった。デジタル回路はプロにしか作れないものになり、どんな簡単に見えるものであっても組み込まれているコンピューターチップにはプログラムが組み込まれている。多くの使うだけの人には、理解不能なブラックボックスに囲まれた世界。それが現代社会だ。

CUBEやFabCafe、さらにはMakeというような施設やイベントは、誰でもが行える「ものづくり」というものを思い起こさせてくれる。

FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)

「FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)」は、このようなパーソナルファブリケーションの今の潮流をビビッドに示す書籍だ。

FabLabは全世界に拡がるパーソナルファブリケーションのネットワークだ。ここでは、「作りたいものを、作りたいから、作る」という原点に帰ったものづくりが行える。それもこれも身近になった多くの工作機械のおかげだ。身近になったとは言っても、まだ普通の個人が家庭に置くことは不可能である。しかし、そのようなものであっても、コミュニティに溶け込んだ形で機器を共有すれば、個人がものを生産することが可能だ。大量生産でも一品生産でもない、「適量生産」というものが可能になる環境なのだ。

身近になったとは言っても、複雑化されたものづくりのプロセス自身が極端に簡略化されたわけではない。ハードウェアのデザイン(設計)から生産、そしてソフトウェアの開発に至るまで、それらすべての技術が必要なことには変わりはない。そのため、たとえば、MITにおけるクラスでは、短期間にすべての必要な技術の習得が要求される。人によって得手不得手があるので、お互いに協力しあいながら。

授業内容の濃度は(私は行ったことはないが)MBAコースと同じように大変濃いものに見える。ただ、違うのは、自分が作りたいものを作るためのクラスであるため、基本的に徹底的に楽しいものであることだ。他人からはくだらなく見えるような製作を進めるものもいる。高度なB級娯楽作品の製作現場のようなものかもしれない。

ここでの技術習得のプロセスはFabLabに限らず応用したい。そのプロセスは、「まなび(Learn)」、「つくり(Make)」、「わかちあう(Share)」というサイクルだ。学んだことを使って、すぐに作り、その結果や応用を共有する。これをサイクルとして回していくことで、技術は発展し、この活動がより拡がる。FabLab以外のすべての教育で、この考えを取り入れられないだろうかと思う。ソフトウェアの世界でオープンソースが普及したことにより、劇的にソフトウェア教育や開発現場の作業が変わったように、ハードウェアも含むものづくりやそれ以外の世界でも、この考えが普及することを願う。

本書では、このFabLabの考えと実際の全世界そして日本のFabLabが紹介されている。具体的な工作機械の話なども豊富にあるが、技術に詳しくない人でも読み通せる。そして、読み終わった後には、何か作りたくなってうずうずしている自分に気づくことだろう。

世界にひとつだけのもの。他人から見たらくだらなくても、もしかしたらいびつに見えるものかもしれなくても、それでも良い。世界にひとつだけのもの。それを作る環境が今はもう身近にある。このパーソナルファブリケーションが広まったら、今の世の中にあるいくつかの産業はまったくことなるものになっているかもしれない。携帯のケースなどは、カスタマイズ可能なデザインだけが流通するようになって、自分の好みのデザインを自分の携帯向けに組みわせる作業はWeb上で行い、それを近くにある3Dプリンターで印刷する。こんなことが近未来には起きるようになっているかもしれない。

***

小学校のとき、ゴムを動力とした自作模型自動車のクラス対抗戦があった。おもちゃ屋に行き、それまでに貯めた小遣いでプラモデル並のパーツを購入した。我ながら、これなら誰にも負けないと思うようなものを作って登校したら、当時のクラス担任にこっぴどく怒られた。

「お前の作ったものは、既成品を組み合わせただけだ。どこが自分で作ったものなんだ」

担任は、買ったパーツを組みわせるだけでなく、見た目は粗末でも良いので、自分でこだわって車を作り上げることを期待していた。見ろと言われて見た隣のクラスの連中の作った車は、牛乳瓶の蓋を何個も束ねて車輪とし、割り箸をゴムで束ねて車体としたものだった。

自分の作りたいものを作る。それは、このようにパーツ1つとってもこだわり抜くことだろう。それがパーソナルファブリケーションの原点だ。