2009年10月13日火曜日

バーボン・ストリート

1984年の作品だから、エッセイの中に登場する日常品なども多少年季が入っている。

井上陽水から宮沢賢治の雨ニモマケズの詩を思い出したいと夜に電話を受け探しに行くところなど、今だったら、夜遅くまでやっている書店など都心ならすぐに見つかる。そもそもこのぐらい有名な詩だったらインターネットで検索すれば一発だろう。

そう、こんな風に、ちょっと昔のちょっと不便だった時代に書かれた沢木耕太郎氏のエッセイだ。

同じようなエッセイを書く人は多くいるが、私が沢木氏が好きなのは、「深夜特急」で見られるようなモラトリアムに対峙する男を代表するような存在であり、また無類の酒好きであるところなどなのだが、やはりなんと言ってもその文章のうまさを忘れてはならない。このエッセイでも、氏の日常を語ったように過ぎないような内容的には軽いものであっても、その文章構成能力の高さで、思わず引き込まれてしまう。

バーボン・ストリート (新潮文庫)

410123504X

関連商品
チェーン・スモーキング (新潮文庫)
彼らの流儀 (新潮文庫)
敗れざる者たち (文春文庫)
人の砂漠 (新潮文庫)
世界は「使われなかった人生」であふれている (幻冬舎文庫)
by G-Tools

最近、一時あれほど読んでいた「仕事術」や「勉強法」などの本を一切読まなくなった。書店に行く度に平積みにされているのを見ると吐き気を催すほど嫌いになってしまったのだが、それは流行るとそれを嫌いになるという天邪鬼な性格のためだけではない。そこまで効率を求めたって、なれるのは気持ちの悪い金太郎飴みたいに同じことをやるだけのロボットのような人間ではないかと思い始めたからだ。

速読術を極めて本を読むよりも、途中つまらなかったら頭を上げ、周りのものに気をとられながらも進めて行くようは読書に私は魅力を覚える。

予定表通りに進められなくても、途中割り込みで入ってしまった仕事に没頭してしまったがための副産物を愛おしく思えるような人とずっと付き合っていきたい。

今日中の仕事を終わらせられなくても、どうしてもという友人との付き合いで徹夜して飲み明かしてしまうような人間でありたい。

つまり、人間っていうのは非効率であるからこそ魅力なのではないかと思う。脳をそんなに最適化しなくても良いのではないだろうか。ストイックなことは魅力だが、ストイックさはそれと対比される人間臭い生活との両輪で成り立つのではないか。

この本に収められている「退屈の効用」というエッセイでも次のように書かれている。
 かつて、売春婦だったといわれる女性を集めて共同生活を送っている、一種の「村」のような施設を訪れたことがあるが、その「村」で特徴的なことはテレビが存在しないことであった。その村の長がテレビは敵だという見解を持っていたからだ。
 「テレビは強制的に貴重な時間を奪う。貴重な、というのは、その時間にすばらしいことができるのに、というのではない。退屈で不安な時を奪うからこそ、テレビは敵なのだ。退屈で不安だから、人は何かを考え、作ろうとする」
 ストイックすぎるといえないこともないが、退屈が何かを生み出すという彼の考え方には説得力がある。私にしても、もの書きになり、いろいろなところで書くようになった文章のモチーフの大部分は、退屈で退屈でたまらない頃に、街をうろついている時に胸の片隅に胚胎したものから始まっているように思える。退屈も捨てたものではないのだ。いや、それどころか、退屈はできている時に深く、徹底的に味わっておくものかもしれないのだ。退屈こそ若者の特権だといえなくもない。
 やがて年をとるにしたがって、退屈をしみじみ味わうことができにくくなっていく。仕事が忙しくなり、家庭での雑事が増えてくる。退屈にどっぷりとつかるどころではなく、せいざいが小間切れに訪れる暇な時間をやりすごすことができるくらいになる。
以前、雑誌に寄稿を良くしていたころ、まだ大学生だった別の執筆者の執筆スピードに驚嘆し、悔し紛れに「学生は時間が無限にあるからね」と言っていたが、実際、若いころは時間が無限にある。その無限の時間を就活などというシステムに窮しているのを見ると実に勿体無い。やることはあるのに、ぼーっと過し、将来への夢と未来への不安を考えるのを先送りにして、アルコールで空腹を埋める。そんなことに時間を使って欲しい。と書いたところで、今の自分そのものなことに気づいた。こりゃ、駄目だ。

最近、私はずーっとスコッチウィスキー派なのだが、久しぶりにバーボンを呑みたくなった。