2012年3月4日日曜日

荒木大輔が教えてくれた

1992年9月24日、彼は戻ってきた。

優勝争いの最中のヤクルトスワローズのピッチャーとして神宮のマウンドに立つのは、荒木大輔(現東京ヤクルトスワローズコーチ)。3度に渡る肘の手術と椎間板ヘルニアを克服して、4年ぶりの復帰。前日に1軍昇格したばかりだった。

対するは広島。5回に荒木がブルペンで投球練習を開始したときから球場は異様な雰囲気となっていた。広島スタンドからも荒木に声援が送られる。

7回表広島の攻撃。2アウト1塁、バッターは4番江藤。1点を追う立場のヤクルトは追加点阻止のため、ついに荒木をマウンドにあげる。

後に監督の野村は言う。「ヤクルトの監督を勤めて3年目。荒木のことを知らない。あえて試合の一番大事なところで使おうと考えていた」。

注目の1球目は真ん中ストレート。もともと球速があるほうではないが、その初球も時速135km。この打ち頃の球にバッターの江藤は手が出ず、見送った。

「初球は何にするかと(捕手の)古田に聞かれたので、思わず真っ直ぐと言ってしまった」と荒木。バッターボックスの江藤はそのとき、打ち気満々で真っ直ぐを待っていたが、荒木の迫力に負け、手が出なかった。

野村監督は初球に注目していたと言う。ストライクを取りに行くのだろうか。相手の江藤は積極的で絶好調。一つ間違えればホームラン。だが、敢えて何も言わずに古田と荒木に任せた。初球が見送りのストライクになり、「こいつは凄い。並のピッチャーじゃない。あぁ、これで大丈夫だと思った」と野村は言う。

フルカウントまで行った対戦は、荒木が無事に江藤を討ち取った。

この年、ヤクルトはペナントレースを制する。


時代を共有するというのはこういうことを言うのだと思う。

1つの時代を確かにこの人たちと一緒に生きたと思える。そのような気持ちを抱かせてくれる機会に恵まれたなら、なんて素敵だろう。

その意味で、私は素敵な機会を得られた幸せな人間だ。その機会を与えてくれたのは荒木大輔さん。

早稲田実業で1年からエースとして活躍した荒木大輔さんは私の1つ上の先輩だ。彼が鮮烈なデビューを果たした年、私はまだ中学3年生だった。当時の早稲田実業は甲子園の常連校で、私が中学に入学する前も、また入ってからも何回か甲子園に出場を果たしていた。中学1年の時には川又さんが中日に入団することになり、学校の前に中日新聞の旗をつけた車がつけたのを野次馬のように見に行ったのを覚えている。なので、荒木さんが急遽故障したエースの芳賀さんの代役として東東京大会を征し、甲子園に行ったときにも、正直そんなに感慨は無かった。

だが、荒木さんおよび当時の早稲田実業の野球部のメンバーの活躍は単に「勝つ」というレベルではなかった。荒木さんが1年のときの夏は準優勝。そして、その後も5年連続甲子園出場を果たす。当時は甲子園出場が当たり前のような感覚になっていたが、荒木さん卒業後に、いかにそれが大変だったことを知る。

荒木さんは卒業後にヤクルトスワローズに入団したが、私はその前からヤクルトファンだった。それもあり、高校卒業後もずっと荒木さんを応援していた。

当初は人気先行で客寄せパンダなどという失礼なことを言われていたが、それを物ともせずにしっかりと実力をつけ、入団3年目の1985年にはローテーションの一角を占め、翌年(1986年)には開幕投手を務める。

そんな荒木さんの活躍を私は父の闘病に付き添いながら見ていた。

当時、バブル真っ只中で大学生活を謳歌していた私だったが、父が病に臥せってから勉強を始めた。闘病しながらも会社に通う父を見て、何かしようと思い、自分の専門でも使っていたコンピューターの技術をしっかりと身につけるために、情報処理技術者試験を受けることとした。これが私が今の道に進むきっかけとなった。

父を車で送り迎えしながら、ラジオから聞こえてくるのは荒木さんの活躍。

球速が無いにも関わらず、丁寧にシュートと胸元の真っ直ぐで積極的に攻める。荒木さんがマウンドで、あの端正なルックスにも関わらず、気力を表に出すピッチングをされるのを見て、勇気をもらった。私も頑張らなければ。

1992年、社会人となり5年目の私はそれなりに仕事はこなしながらも、このままで良いのか、自分の道はどこにあるのかを考えた。転職も考えた。

そんなとき、荒木さんが復活した。テレビやラジオなどを通じて知る荒木さんの活躍に背中を押された。4年間も復活だけを信じて、地道な努力を続けた荒木さんの100分の1だけでも努力すれば出来ないことなど無いに違いない。自分も頑張らなければ。

上司にも恵まれ、まだ20代でもあるにも関わらず、重要なプロジェクトのリーダーとして米国に長期出張をすることになった。自分の専門領域ではないし、始めての長期の米国滞在なので、不安だらけだったが、どうにか成し遂げた。

その後もいつも荒木さんには力をもらった。

2006年、再び、早稲田実業野球部から私は力をもらう。あの夏は忘れられない。

予選だったか、甲子園での試合だったか忘れたが、私はシリコンバレーから母校の試合の途中経過を伝えるリアルタイム掲示板を見ていた。現在の勤務先であるGoogleのインタビューを受けるために滞在していたマウンテンビューのホテルで、掲示板のページを何度も更新しながら、母校を応援していた。

前職で仕事に不満はなかったが、新たなことに挑戦したくなり、転職を決意した。米国オフィスで英語でのインタビューを受けることになり、ホテルで準備をしていた。海の向こうでは荒木さんの後輩たちが頑張っている。自分も頑張らなければ。

母校は勝ち続けた。帰国してからも、母校の国分寺のホールでのパブリックビューイングで応援した。再試合となった決勝戦は2度とも母校のホールにいた。変なところで運命を信じる私は、母校が優勝したら、自分もインタビューに通ると考えていた。結果、母校は優勝し、私は今の会社で勤務している。

時代を共有するというのは人によって感覚が違うのかもしれないが、それでも私は荒木さんから、そして早稲田実業野球部からは力をもらった。


「インコースを思いっきりつきましょう」と捕手の古田は言った。いつも攻めることを忘れずに。丁寧に。

今でも記憶に残っている1シーンがある。巨人戦だったと思うが、バッターの球がライナーで荒木さんの足にあたりフライとなった。サードが取ったのだと思うのだが、塁審はそれがノーバウンドなのかバウンドしたのか一瞬判断がつかなかった。それを見た荒木さんが大声で「アウトや!」と言って、マウンドをすたすたと降りて行った。気力、気合、闘志。そういうことすべてを見せてもらった。

荒木さん、ありがとう。